別冊つり人 Vol.112 Mr.Logan 1999 SPRING Vol.1 8P-13P

ジョニー・ローガンの豊かな人生

Johnne Logan casting

目次

語り
荒井利治 talked by Toshiharu Arai
写真提供&協力
(株)アングラーズリサーチ Special thanks to Anglers Research Ltd.

1988年1月4日、ひとりの老人がこの世を去った。 創業100年以上を誇る、老舗フライタックルメーカー"ハーディー"でロッドを振りつづけたジョニー・ローガン。 釣りを楽しみ、酒を愛し、老若男女を問わず世界中に釣り友達を作った男が送った"豊かな人生"とは? 生前の彼を知る人物が、その実像を語る--。」

もともとBBCの職員だったジョニー・ローガンは、釣り好きが高じてそれを生涯の仕事に選びました

Captain Edwards and Johnne Logan

1945年のロ一ガン(右)とキャプテン・エドワード(左から2人め)。 ハーディーと契約を結んでいたが、ともに社員ではなかったため、タックルは自前で揃えていたという。 のちにキャプテン・エドワードは釣り場て倒れてこの世を去る。 釣り人としては、このうえなく望んているかたちの死を遂げたといえる


1960年代、イギリスの"ハーディー・キャスティングスクール・オブ・ロンドン"でフライフィッシングを教えていたのは、キャプテン・エドワードという人でした。 彼は"キャプテン"というくらいですから海軍の軍人であり、若いころはたいへんな冒険家としても知られ、ダイムラーのテストドライバーなども務めた人物です。

そして1960年代の後半、BBCを退職したローガンが、彼のアシスタントとしてスクールを手伝うようになったのです。

私が知り合ってから約10年、'84('85?)年まで、ローガンキャプテン・エドワードの跡を継いで、ハーディースクールの教授を務めました。 "豊かな中年"といいますか、きれいに年を取っていくというのを絵に書いたような人でしたね。

彼は釣りをとおして多くの人と知り合うことができましたし、交遊関係も広がったようです。 教えた人のなかには、プリンス・オブ・ウエールズ(チャールズ皇太子)、それからドイツの元首相のブラント、ジャズ界でばカナダのピアニストであるオスカー・ピーターソンなどもいます。 オスカーはローガンに教わってから、その人柄に惚れてしまったようで、ロンドン公演があると必ずローガン夫妻を招待していました。 モダンジャズは彼の好みではありませんでしたが、結局は好きになっていたようです。

ローガンの性格をひと言で表すとすれば"頑固者"でしょう

Captain Edwards and Johnne LoganLogan name plate

キャプテン・エドワードと知り合ったあとに、2度めの結婚を果たしたローガンはその2人目の奥さんに見取られて亡くなる。 晩年まで釣りに専念できた人生、そしてカッコいい年のとり方は、彼を知る世界中の友人の憧れの的である。


彼は典型的なスコットランド人だといえます。 私たちはイギリス人のことをいっしょくたにしてしまいますが、イギリス人というのは頑なに、イングランド、ウエールズ、スコットランド、ノーザンアイルランドと、それぞれの土地を強く意識しています。 「私たちはスコティッシユだ」というようにね。 それを"ジョンブル魂"といいますが、そういう意味では、まさしくローガンはスコティッシュでした。 スコットランド人ということを誇りに思っていましたから。

スコットランド人は文化の面においても頑固です。 日本人も着物という文化を大切にしますが、スコットランド人のキルトにはおよばないでしょう。 彼らは今でもきちんとキルトを着ます。

ローガン家というのは、スコットランドでもかなりの名門なんです。 ですから、ローガン家には紋章があるんですよ。 そして、名門の家には代々伝わるタータンチェックがあります。 日本ではバーバリーなどの系列が有名ですけど、あれは決して適当なデザインではなく、その家々を表わす家紋のようなものなのです。

頑固なスコットランド人でありながら、同時にローガンはたいへんな親日家でもありました。 日本人に「お国はどこですか?」なんて聞かれると、「日本だよ」って答えるんです。 「オレはスコティッシュ・ジャパニーズ」だとかいって、みんなを笑わせていました。

ハーディー退職後の1985年か90年代の初めまで、何度も日本に来てくれましてね。 北海道から九州までの各地でスクールを開いて、ずいぶん多くの日本人が、彼からフライキャスティングを習いました。 今でも「もういちどローガンに習いたかった」という人は多いです。

ローガンは特に、北海道に対してはかなり思い入れがあったようです。 それは釣り場としてではありません。

スコットランドには昔、ケルト人という先住民が住んでいましたが、歴史上、そのケルト人がアングロサクソンに追われる経過があるのです。 これはアイヌが、ヤマト人に追いやられるというストーリーに似たところがあるので、ローガンが北海道に惹かれたのは、そんなことがあったからでしょう。 札幌の郊外に北海道開拓の歴史などを紹介する博物館があるのですが、スクールのあとでそこに寄った時はアイヌの歴史をずいぶん長い時間をかけて見ていました。 その晩ホテルに戻ってからも、スコットランドのケルト人が追害された話を夜遅くまでしてくれましたよ。

Logan with a Kilt

ローガン家のキルトを着るローガン。 スコットランド人は、今でも伝統的なキルトを着用する。 頑固なスコットランド人でありながら日本も大好きだったローガンの気持ち「スコティシュ・ジャパニーズ」という言葉に凝縮された

ローガンのキルトは彼の死後、荒井さんに贈られた


お客さんと待ち合わせるのはいつもケンウッドの森に近いパブなんです

Captain Edwards and Johnne Logan

写真を趣味にしていたローガン。 数台のライカを所有していて、来日の際にも必ず2台は持ってきた。 スクールの合間に、田舎の道祖神や子どもたちの姿などを熱心に撮っていたという


彼がキャスティングを教えていたのは、ロンドンのいちぱん北にあるケンウッド近くの池でしたが、ローガンはとても酒好きで、パブで一杯やってから池に行って授業をするんです。 そして、終わるとまたそのパブに戻って飲んでからお客と別れるというのを操り返していました。

ちなみにその店は『フラスク』といって、1635年にオープンした、ロンドンでも最古のパブのひとつです。 今でも私がそこに行きますと、「おっ、ジョニーの伜が来たぞ」なんて冗談を言われます。(笑)

私が彼と似ているわけではないんですが、彼が日本人に似ている点は、かなり背が小さかったことでしょう。 フライフィッシングに関していえば、背の低さは道具やテクニックで克服できます。 しかし、元来キャスティングトーナメントなどの表舞台に出ることは好きではなかったようです。 裏方的なことが好きだったのではないでしょうか。

実際に彼は競技会などにはでていません。 ですが、テクニックにはすごいものがありました。 ハーディーで釣りの講師を職業としてやっていくまでには、相当厳しい試練を通り抜けてきたはずです。 中途半端な技量では、ハーディーとしても採用はしなかったでしよう。

生涯で、世界40〜50ヵ国の人々にレッスンを施したローガンですが、彼としてはどこの国の人が来ても自分の言葉を理解して帰ってもらいたいと思っていたようです。 けれど、相手が英語を話せないケースはたくさんあります。

そこで、ローガンという人物のスゴさが分かります。 彼は擬音でキャスティングを教えたのです。 「シュシュシュシユッ」とかいう音を出してね。 口笛も多用しました。 それがまた、とてもうまいんです。 キャスティングによって音質を変えるんですよ。 低かったり高かったりと。 これは誰も真似ができませんでした。

だから、きっと日本人の8割は、ローガンのレッスンを擬音で覚えているはずです。

もともと、ローガンは巻き舌のクセがある、スコットランド英語を話す人だったのです。 したがって、逆に英語が話せる人のほうが聞きとりづらく、分かりにくかったりもします。 それを擬音ですべて解決しました。 ですからみんな同じように教わって帰ることができたんです。

1971年当時、日本のフライ人日は約300人といわれていました。 それが今では50万人といわれているでしょう。 たか30年弱でこんなに増えたのです。

その間、フライフィッシングを広めるために、多くのフライフィッシャーを日本に呼びましたが、擬音で言葉の障壁を超えたのは、あとにも先にもローガンしかいません。

Captain Edwards and Johnne Logan

生前、最後日本に来た時のローガンはずいぶんと疲れた感じが見えたという。 「これからは高齢者や車イスの人も釣りを楽しめる時代にしていかなければならない」との意見に、荒井さんと2人でイスに座ってキャスティングを教えることを考えた。 下半身を固定することてラインの距離が伸び、思わぬメリットに驚いたローガンは、「オレも楽だから助かると」話していた


援業料が約20ポンドだった時代インドのマハララジャなどは300〜500ポンドのチップを置いていきました

Captain Edwards and Johnne Logan

ローガンスクールを行なっていたのは、彼の支持者であるノーザンバーランド公爵のロンドン館がある、サイオン・パーク内の池だった。 その後、ローガンが引っ越ししてサイオン・パークまで遠くなってしまい、ケンウッドの池に場所を変える


当時、イギリスのキャスティングの授業料はたいした金額ではありませんでしたが、ローガンの教え方がうまいために、彼を気に入って、その何倍もチップをくれるお客さんがいたようです。 自分の子どもを連れてきて、「この子に教えてくれ」なんてことになると、高額なチップを置いていってくれるわけです。

そして「イギリスに行ったらローガンに教われ」というのが、社会的地位のある人たちの間に広まっていたようです。 お客さんの知り合いが、またお客で来るようになりました。

その時、ローガンは年問に最低で150日は個人レッスンをやっていました。 日本とちがって、イギリスでいう150日はすごい日数ですよ。 土日は完全に休みですし、労働法で休暇もとるように定められていますから。

個人レッスンというのは、英会話スクールとちがって時間に制限がないんです。 つまり、始めたら生徒が納得してくれるまでマンツーマンでやります。 半日で終わる日もあれぱ、朝早くから夕方遅くまでかかるという日もありました。

ある年、私が友人に「イギリスに行くからローガンにキャスティングを教えてもらえるように頼んでくれないか」と言われたことがあるんです。 「ちょっと待って。聞いてはみるけど……」と言ってイギリスに確認したら、半年後ならいいっていうんですよ。 とてもじやないが、これから数ヵ月は無埋だと。 ロンドンにだって何10というキャスティングスクールがあるんですけれど、そちらはこんなに混んでるなんて聞いたことありません。

もちろん、"ハーディー"というブランドの力もあったことは確かですが、ほかのメーカーだって教授を抱えているわけですから。 いかにローガンが優れた教授であったか、そして魅力のある人物だったかということです。

ローガンハーディー スクールを退職したあとは、アンドリュー・モーリーという人が引き継ぎました。 若いスコットランド人でして、ローガンがいろいろ教えてあとを任せたわけです。

ローガンが引退してから、例の毎日レッスンをしていた池に行った時ね、そこにいつも釣りに来ているおじいさんが不思議がって聞いてきましたよ。 「あれっ、ローガンどうした?また日本に行ってるのか」なんてね。

(別冊つり人 Vol.112 Mr.Logan 1999 SPRING Vol.1 8P-13P)


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