HARDY物語-その歴史と時代背景-

Club of Hardy Japan

100年を超えるハーディーの歴史は様々なエピソードで彩られており、その伝説は枚挙に暇がないが、その資料は意外に少ない。

以下は、ジム・ハーディーとも親交を持つ元ハーディーの日本代理店アングラーズリサーチ社荒井利治氏の助言を得て、断片的に伝えられているハーディーの歴史とその時代背景をクラブにおいてまとめたものである。

目次

最高のものが求められた時代--黎明期--

イギリス、スコットランドに程近いイングランド北部、ノーザンバーランド州の北海沿いの古い城下町アーニックにWilliam Hardy(ウィリアム)、弟のJohn James Hardy(ジョン・ジェームス)兄弟によって銃砲と釣具の製造販売を行うハーディー兄弟商会が産声をあげたのは、1872年のことであった。 ときはヴィクトリア女王の治世の中期、「ヴィクトリア朝の繁栄期」といわれた時代であり、経済史上の時代区分によれば、1820年代から続いていた自由主義の時代が終りを告げ、1873年に始まった大不況を契機として帝国主義の時代へと移行する過渡期でもあった。 日本では明治維新後間もない時代である。 ハーディーの創業期を語るに当たって、19世紀後半の英帝国について、その時代背景をもう少し整理しておく必要があろう。

世界に先駆けて独力で産業革命を達成した英帝国は、1850年代から1860年代には、「世界の工場」、「日の没することのなき帝国」と呼ばれるに相応しい国際的地位を確立し、俗に「ヴィクトリア朝の繁栄期」、「パックス・ブリタニカ」といわれる黄金時代を迎えていた。

産業革命の完成期に当たるこの時代は、大量生産、大量消費時代の幕開けでもあった。 綿工業の機械化に始まった産業革命は、関連企業にも次々と波及し、様々な分野の企業で機械化が進められたが、その中にあって市場の拡大に拍車をかけるとともに、市民のライフスタイルに大きな変化をもたらしたのが交通手段の発達であった。 中でも鉄道の普及・発達にはめざましいものがあり、1830年にマンチェスターとリバプールを結ぶ最初の鉄道が開通してからわずか20年足らずの1850年代までには、早くも全国的な鉄道網が完成し、当初は高価であった運賃も徐々に低廉化したため、やがて鉄道は庶民の日常生活になくてはならない「足」となった。 従来からの「職住一致」型のライフスタイルが通勤による「職住分離」型に変化し、大都市周辺にベッドタウンが形成されていったのもこの頃である。 1863年にはロンドンに地下鉄が開通している。

このような交通手段の発達に伴う社会生活の変化に関して無視できない重要な変化は、旅行をはじめとしたレジャーの大衆化であった。 低賃金と長時間労働に象徴される産業革命期の労働者にはレジャーを楽しむゆとりなどは到底望むことができなかったわけであるが、「ヴィクトリア朝の繁栄期」には、徐々にではあるが、労働者の実質賃金も上昇し、土曜日が半日制となり、日曜日以外の休日も増えるなど、生活水準の向上が見られるようになり、余暇の拡大とともに、旅行などのレジャーを楽しむ人々が増えていった。

また、「ヴィクトリア朝の繁栄期」は、各種のスポーツが生まれ、普及した時代でもあった。 サッカー、クリケットなどの従来からのスポーツについては、そのルールが確立され、選手権大会なども開催されるようになった。 この時代にはこの他にもゴルフ、ローン・テニス、アーチェリーなど、現在でもポピュラーなスポーツが次々と登場している。

釣りの歴史は、いうまでもなくもっと古いものであるが、いわゆるコースフィッングはともかくフライフィッシングのような洗練された紳士のスポーツとしての釣りは、この時代までの庶民にとっては全く無縁のものであり、主に領地内に河川を所有する貴族などの特権階級固有のレジャーであったと考えられる。 ところが、国民の生活水準が向上し、レジャーの大衆化が進んだ19世紀後半期には、これまでの特権階級に加えて成功した実業家や一部の中流階級の間でも洗練された紳士のスポーツとしての釣りに対する関心が高まり、広く普及するようになったものと考えることができる。

一方で、この頃の特権階級の人々はというと、地代などから生ずるあり余る財力をバックに海外の植民地などでの贅沢なフィッシングやハンティングを楽しんでいたのであり、これらの人々が自らの趣味のために高品質の道具を求めるようになっていったことも容易に想像できる。

ウィリアム、ジョン・ジェームス兄弟がこのような時代の流れを感じとっていたかどうかは、今となっては知る術もない。 だがレジャーを楽しむ人が増え、多くの人々が最高のものを求めるようになっていった時代とハーディー兄弟商会が誕生した時期が重なっていることを考えると、歴史の当然の成り行きというには少々オーバーかもしれないが、少なくともこの時期には、様々な点でハーディーの理想とその活動を受け入れるだけの歴史的、社会的なお膳立てができあがっていたと考えてよいのではないだろうか。

銃砲商から釣具商へ

こうしてハーディー兄弟商会は、イングランド北部の片田舎の城下町アーニックにひっそりと誕生したわけであるが、当時は釣具の製造販売などが果たして企業として成り立つのかということさえもわからない時代であり、当初はあくまで銃砲業が主体であった。 しかし、本業である銃砲職人の高い技術に裏打ちされたハーディーの釣具の評判は予想以上で、創業から10年程の間にほぼ国内全域にユーザーを有するまでになる。 もちろん全国的に顧客を有するようになるまでの道のりは決して平坦なものではなかったが、このように短期間で全国的に顧客を有することができるようになった背景には、鉄道をはじめとした交通手段の発達やこれに伴う情報伝達手段の発達によって従来は局地的なものでしかなかった市場圏が互いに結びつけられ、全国的な市場圏が形成されていったという歴史の流れがあることを無視することはできないだろう。

しかし、この10年間の成功もウィリアム、ジョン・ジェームスにとっては決して満足のいくものではなかった。 釣具の顧客を全国に有するようになり、その企業形態も銃砲商から釣具商に転換させることができるようになったとはいえ、2人の理想とするところはあくまで釣具を一つの分野における商品として独立させることであり、多くのユーザーの意見を取り入れつつも不特定多数の顧客に提供できるものを製造販売することによって釣具の標準化を図ることであった(この頃は、特に釣竿などはその多くが特注品であり、誰にでも使いやすいスタンダードないわゆる定盤商品はほとんどなかったと考えられる。)。 単に釣具を製造販売して顧客の希望に答えているだけでは地方の一釣具商から脱皮することは到底できないと2人は考えていたのである。

パラコナの開発

試行錯誤を重ねた末、ハーディーはロッドの材料としてグリーンハート、ランスウッド、ヒッコリーなどの多様な木材が使用されている中にあって東南アジア原産のトンキン竹を最高のロッド材料として選び、三角形に割いた竹のセクション6枚を貼り合わせて六角形にするいわゆるスプリットバンブーロッドの製法を開発、登録商標として「パラコナ」の名称を使用した。 創業から10年後の1882年のことである。 そしてこのパラコナロッドは1883年〜1884年にロンドンで開催された博覧会(Great Fisheries Exhibition)に出品され、ゴールドメダルを受賞、内外に一大センセーションを巻き起こしたのであった。 ただし、この頃アメリカでは既にスプリットバンブーロッドが生産されており、その完成期にさしかかっていた。 したがってスプリットバンブーロッドの製法そのものは決してハーディーが草分けだったというわけではない。

しかしながらハーディーの銃砲職人としての卓越した技術に裏打ちされた高度なロッドづくりの技術は、ジョイント部の機構など随所に伺うことができる。 有名なロックファストジョイントが考案されたのは1882年のことであるが、雄のジョイントのかぎ爪状の金具の取り付けには、鉄砲の銃身に照準を取り付ける技術が生かされており、また、エクストラトップを収納するトップケースにも鉄砲の銃身を製造する技術が生かされている。

この他にも、1884年には"Weeger's wedge-fast"リールフィッティング(いわゆるユニバーサルリールフィッティング又は"W"リールフィッティングと呼ばれているもの。)を考案、1890年には世界に先駆けてスネークガイドを採用し、さらに1911年には現在では世界中のメーカーが採用しているスクリュー式リールフィッティングを開発するなど、ハーディーは今日のロッドづくりの基礎を築き上げてきたのである。

トップメーカーへの道のり−

1883年〜1884年の博覧会でのゴールドメダルの受賞は、国内のみならず海外にもハーディーの名を知らしめることになり、内外の顧客の増加に伴い、工場の拡張、従業員の増員を図るなど博覧会以後の数年間は多忙を極めたときであった。

しかしハーディーはただ漫然と釣具を製造して販売していただけではなく、自らその製品の優秀性を世に披露するのである。 1885年、ジョン・ジェームスは、英国スカーバラにおいて開催された国際トーナメントに自らパラコナロッドをもって出場、ダブルハンド部門で46ヤード2フィート3インチ、シングルハンド部門で28ヤード2フィート4インチといういずれも当時としては無類の記録を打ち立てて優勝し、「ハーディー製品の良さを理解するためには十分に使いこなす技量が必要である。」というジョン・ジェームスの持論をまさに実際の行動で世に示したのであった。

ジョン・ジェームスは、これ以後各地で開催されたトーナメントに出場し、優勝のほとんどをその手中におさめることになる。 ハーディーのパラコナロッドが欧米各地で開催されたトーナメントにおいていかに多くの勝利をもたらしたかは、当時のアングラーズガイドの1頁にずらりと並んだジョン・ジェームス、初代ウィリアムの息子のLaurence Robert Hardy(L.R.H.ローレンス)、ジョン・ジェームスの甥のHarold John Hardy(ハロルド)の3人の記録を一目見れば一目瞭然である。 当時の「フィッシングギャゼット」誌は、この3人を「スキルフルトリオ(熟達した3人組)」と紹介している。 また、国際トーナメントの普及とあいまってフランスのキャスティングクラブ(Casting Club de France)との提携なども行われ、ハーディーの名声は不動のものとなったのである。

1911年、ジョン・ジェームスは、フランス、パリのBois-de-Boulougneのティール・オー・ピジョンのキャスティング池において、わずか7フィート、23/4オンスというロッドで25ヤードという驚異的なキャスティングを披露した。 当時はこれより軽量のロッドは世界中にも存在せず、世界一軽いロッドとして話題をさらった。 世紀の名竿 C.C.de France誕生のきっかけとなった伝説である。 このときの模様は、ハーディー社のオフィスに今も残る山高帽を被ったフランスのキャスター達に囲まれたジョン・ジェームスをとらえた古い一枚の写真がつぶさに物語っている。

ジョン・ジェームスの死

ジョン・ジェームスの名前はその没後もアングラーズガイドにしばしば登場しており、その名前の後には決まって Professional Champion Salmon and Trout Fly Caster of Europe(ヨーロッパのサーモン、トラウトフライキャスターのプロフェッショナルチャンピオン)と記されている。 アジアなどは全く認められておらず、ヨーロッパが世界の中心であった時代である。 ヨーロッパのチャンピオンということは、すなわち世界一であるということを示すものであった。 そしてこれ以後、ジョン・ジェームス以外にこの呼称を使用するキャスターが現れなかったことからも、ジョン・ジェームスがいかに卓越したキャスターであったか容易に想像することができよう。

ジョン・ジェームスの死は劇的であった。 ジョン・ジェームスは1931年、ノーウッドにおいて41/2オンスのロッドを用いて27ヤードのキャスティングを披露し、これがもとになって後に名竿として名高いJ.J.H.トライアンフ(大勝利)が誕生した。 しかし、その翌年の1932年、ジョン・ジェームスは工場に程近いコーケット川でサーモンフィッシングの最中に心臓の発作におそわれ、その生涯にピリオドを打ったのである。 釣りを愛し、死の瞬間までヨーロッパのキャスティングチャンピオンの座を守り続けた偉大なる創始者のあっけない幕切れであった。 その最期は誰一人看とることもなかったが、自らの生涯の仕事として選んだ釣具とともに、美しい川の流れに看とられて迎えた静かな死は、釣人として理想的ともいえる最期であった。 アングラーズガイドのJ.J.H.トライアンフを紹介するページに登場するジョン・ジェームスの写真は、そのままジョン・ジェームスの遺影となったが、その威厳ある姿は今でも人々の心に何かを語りかけてくる。

メーカーとして、キャスターとして、そしてフライフィッシングの伝道者としてのジョン・ジェームスの生涯は、後々のハーディーファミリーの発展の基礎を築くとともに、英国の誇る釣具の歴史に偉大な足跡を残すなど、その影響は計り知れない。

顧客となった有名人

セントジェームス宮殿の正面に位置するペルメル店は現在唯一残るロンドンの小売部であり、本来貴族や王室関係者を相手に置かれたものであるが、外交官の口伝えにより世界各国の要人や有名人が顧客となった。 アーネスト・ヘミングウェイや西部劇の文筆家として知られるザーン・グレイ、モダンジャズの巨匠オスカー・ピーターソンもペルメル店の顧客である。

ヘミングウェイが全ての鱒釣りの道具にハーディー製を指定し、名竿フェアリーなどを持ってアメリカの川を釣り歩いた話は有名であるが、ある時そのコレクションの全てを盗難に遭って紛失した。 それ以来、ヘミングウェイは二度と鱒釣りに戻ることはなく、ザーン・グレイの勧めもあって海の大物釣りに転向してしまったという。 ヘミングウェイにとっては不幸な出来事であったが、これがなければ名作「老人と海」が生まれることはなかったわけで、全く因果なものである。

ザーン・グレイは1920年代の初めジョン・ジェームスと出会い、マーリン用のトローリングリールを特注した。 ジョン・ジェームスとザーン・グレイの試行錯誤は大変なもので、再三にわたりザーン・グレイがハーディーの工場を訪問するたびに締切りを延ばされるアメリカの出版社は悲鳴を上げたという。 ハーディーのクラフトマンシップの集大成ともいうべきザーン・グレイリールのプロトタイプが完成したのは1925年のことであり、翌1926年、ザーン・グレイはカジキの世界記録を更新、以来次々と記録を更新していくことになる。 1931年にはタヒチにおいて1250ポンドを超すストライプマーリンを仕留めたが、全長14フィートもの魚を引き上げるまでに鮫の猛襲を受け、200ポンドもの肉片を食いちぎられてしまい、結局1040ポンドになってしまったという話が伝えられている。

酷使したリールは必ずハーディー社に返送され、ジョン・ジェームス自らの手によりオーバーホールがなされたという。 度重なる試行錯誤を経てザーン・グレイリールが製品化されたのは1930年代前半であった。 戦後ザーン・グレイリールの製造は中止されていたが、ビッグゲーム熱の高まりに伴い、その再現を希望する声が殺到した。 ウィリアム3世はこれに応えて巻き上げとクラッチ機構を分離するなどまったく新しいリールとしてデザインし直し、数年に及ぶテストを経て1985年に再びザーン・グレイリールを製品化した。 月産2〜3台ともいわれるこの最高級リールは、世界一高価なリールとして今も受注生産されている。

ジャズピアニストのオスカー・ピーターソンは熱心なフライフィッシングの愛好者であり、ロンドン公演の際には必ず店を訪れ、イングランドでの釣りの休日を楽しんだ。 ロンドンスクール・オブ・キャスティング教授の故ジョニー・ローガンの教え子であり、スクールはなくてもローガンをよく演奏会や食事に招待していたという。

この他、ハーディー製品を愛好した人としては、ジョージ.S.マリエット、F・M・ハルフォード、R・B・マーストン、サー・エドワード・グレイなど、フライフィッシングをたしなむ人であれば一度は聞いたことのあるような面々があげられる。 戦前の奥日光でのフライフィッシングを描いた「釣魚迷」の著者の西園寺公一氏もハーディー製品の愛好者であり、氏の愛用したロッドは、日光で「東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部」を主宰したハンス・ハンターが愛用したものと同じ「デラックス」であった。

王室とのつながり

セントジェームス宮殿の正面に位置するハーディーロンドン店の界隈は、バーバリー、ロブ、フォートナム&メーソンなど王室御用達の一流店が軒を連ねる王室との関係の深い地域であった。 ハーディーが王室御用達となったのは1906年、ときの皇太子(後のジョージ5世国王)が自らの釣り道具にハーディー製品を登用したことがきっかけであった。 この後、ハーディーはジョージ5世国王の御用達となったのを皮切りに、国内ではプリンスオブウェールズ(後のエドワード8世国王、即位後まもなくシンプソン事件により退位してウィンザー公となる。)、クイーンメアリー、プリンスオブウェールズ(現在のチャールズ皇太子)、海外ではスペインブルボン王家のアルフォンソ13世国王、イタリアサヴォイ王家のヴィトリオ・エマヌエーレ3世国王をはじめ、ベルギーのプリンスレオポルド、デンマークのプリンスアクセル、スウェーデンのクラウン・プリンス・オブ・スウェーデン(後のグスタフ6世国王)など、内外の王室の御用達となり、このことがハーディーの「伝統ある由緒正しい高級釣具メーカー」というブランドイメージの確立に大きく貢献したことはいうまでもない。

シンプソン事件により退位してウィンザー公となったエドワード8世は、退位した後フランスに住むようになってもハーディー製品を愛用された。 また、皇太子時代の1921年には、日本の昭和天皇(皇太子時代)が初の英国訪問をされ、スコットランドでお二人でサーモンフィッシングを楽しまれているが、このときお世話をしたのがジョン・ジェームスで、当然ハーディーの道具が使用された。 現在の徳仁皇太子も、オックスフォード在学中に何度も釣りを楽しまれており、当然ハーディー製品が使用されたはずである。

ところで、英国では1月と6月の年2回全土でセールと称する安売りの季節があり、ハロッズから駅前の土産物店までこぞって安売りを行うのが慣例となっているが、ハーディーを含め王室御用達の一部の店では未だにセールを行わない。 世界のハイソサエティの人々が愛用しているものが一時的にせよ安売りの対象にするのは無礼との判断からである。

最新の技術と最高の製品…2代目ローレンスの時代

1872年の創業から20世紀に入るあたりまでのハーディー製品はいずれも高い技術に裏打ちされた高品質のものであったが、あくまで職人の手による手工業の域を出ることはできず、コスト的に割高なだけでなく、量産が難しいという点で大きな問題が残されていた。 これらの問題を解決し、社業をさらに発展させるために大きな貢献をしたのがジョン・ジェームスの弟のフォスターとロバートに続いて入社した初代ウィリアムの息子のLaurence Robert Hardy(ローレンス)であった。 リールのL.R.H.ライトウェイトのL.R.H.はローレンスの名前である。

ローレンスは、職人の手作業に依存していたこれまでの生産体制を一新して近代化を図り、当時の最先端の工作機械業者と提携することにより、1925年に自動的にテーパーをつけながら竹を削る機械を開発し、従来のプランニングブロックによる手作業を機械化することによって高精度な製品を量産するという当時としては画期的な生産体制を確立したのである。 この機械は長い間門外不出とされていたため、当時のライバルメーカーにとって、寸分の狂いもなく量産されるパラコナロッドは大きな驚異であった。 また、ローレンスは、この時期にやはり同様に最新技術を模索していたロールスロイス社の首脳と知り合い、最新の技術をフルに活用して世界の一流品を作るという両社の共通したクラフトマンスピリットが釣具と自動車という分野の違いを越えて両社を結び付けることになる。 この後、広告の分野において両社は深いかかわり合いを持つことになるのである。 1910年代のロールスロイスのカタログにはハーディーロンドン店の前にロールスロイスを乗りつけている写真が使用され、「(ハーディーの釣具を買うような)全てに最高のものを求める者がロールスロイスを買う。」というフレーズがつけられている。 そしてこの写真はそのままハーディーのカタログにも使用されることになるのである。

公表されてはいないが、第二次世界対戦中に軍用機のエンジンなどの生産を行っていたロールスロイス社は、優れた旋盤加工技術を持つハーディー社の協力を得ることによって納期を短縮することができ、この関係は終戦まで継続されたという。 戦後の1950年代には再び再建されたハーディーロンドン店の前でロールスロイスの写真が撮影され、ハーディーのカタログにも使用されている。

現在でも最高級品を称して「…のロールスロイス」などとよくいうが、ハーディーロールスロイス社も認めた「釣具のロールスロイス」であり、言うなれば、ロールスロイスは「自動車のハーディー」だったのである。 これは後にジム・ハーディーも語っていたことである。

1927年には、ローレンスと William Jr.(ウィリアム2世)の弟にあたるFrederic(フレデリック)とAlan(アラン)の二人が経営に参画し、海外向けの事業の拡大の準備を進めるとともに、1928年にはジョン・ジェームスの引退(ウィリアムは、1916年没。)に伴い、ローレンスと弟のウィリアム2世(1928年没。)が社業を引き継ぎ、ハーディーは株式会社として新たな一歩を踏み出すことになる。

ローレンスは、創始者ジョン・ジェームスの後を引き継いでトーナメントキャスターとしても活躍し、各種競技会で記録を更新するとともに、1935年にはロッドの中心に軽量の洋松材を入れるというパラコナロッドの新製法(トーナメントロッドやターニー等のロングキャスト用のロッドに生かされた。)を開発するなど、次々に新たなアイデアを生み出し、これを近代的な技術によって製品に反映させることによって製品の品質をさらに高め、販売実績を飛躍的に増加させた。 トーナメントに参加して自社製品の優秀性を披露するとともに代理店契約によって世界各国に販売店網を拡大するというローレンス持ち前の外交手腕をフルに生かしたことがこの成功をもたらしたのである。 当初の代理店は、主にヨーロッパ地区が中心であったが、やがてアメリカ、アフリカ、オーストラリア、インド、中近東、中国、日本などにも代理店網を広げ、英国式のフライフィッシングを全世界に普及させることになったのである。 また、ローレンスは、ロッドの製造だけではなく、リールの製造にも次々と新技術とアイデアを導入し、1936年に発表されてから現在までほとんど変わらずに生産されているライトウェイトレンジをはじめ、200台程しか生産されなかったコレクター垂涎の最高級フライリール、カスカペディアなど、数々の名品を生み出し、「リールのハーディー」という名声をさらに不動のものとしたのである。

日本の代理店

1931年のアングラーズガイドによると、神戸のW.M.STRACHAN&CO(AGENCIES)LTD.のJ.E.Mossという人物が代理店を務めている記録があり、その住所は神戸市山本通り2丁目104番地(後に神戸海岸通り1番地に移転)とされている。 ハーディーでは、1800年代の終り頃からリーダーやティペットの自社製造を本格化しており、必要なガット素材をスペインなどから調達していたが、事業の拡大からシルク素材を採用することとなり、日本から絹を大量に購入する構想が企画され、その取引先として選ばれたのが同社であった。 その後、第二次世界対戦の直前まで相当量の絹が日本の代理店を通じて輸出されたが、ハーディー製品の日本への納入はほとんど記録がなく、輸出のための代理店として存在していたと考えられている。 ちなみに1931年は昭和6年。 満州事変の勃発した年であり、現在のようにフライフィッシングを楽しむ者もなかったが、奥日光中禅寺湖の湖畔では、ハンス・ハンターが主宰する「東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部」が束の間の避暑地外交の花を咲かせ、在日外国人や日本の外交官などの限られた人達がヨーロッパにも似た奥日光の地で優雅にフライフィッシングを楽しんでいた。 そこでは多くのハーディーの道具が使用されていたが、これらの道具は外交特権を持つハンターらが直接持ち込んだものであり、代理店を通じて持ち込まれたものではないと考えられている。 やがて、戦争の勃発とともに日本のフライフィッシングは荒廃していくのである。

第二次大戦中の活動

1938年にはフレデリックの息子で後にハーディー社の3代目となるWilliam F.Hardy(ウィリアム3世 1984年没。)が入社し、ローレンスは高度な機械加工技術を生かして航空産業にも進出するなど、社業は順調に推移していくかに見えたが、世界情勢には不穏な空気が拡がり、やがてヨーロッパは第二次世界大戦の戦火に見舞われることになる。

ハーディー社も、1940年頃から例外なく素材の確保に悩まされるようになる。 まず日本からの絹糸素材の入荷が停止し、さらに鋼材の入荷が著しく制限されるようになった。 アルミニウム素材は軍用機などの軍需産業に優先されることになっていた。

第二次世界大戦の勃発によりハーディーの工場は第一次世界大戦のときと同様に軍需工場に指定され、ウィリアム3世、ウィリアム2世の息子のJames L.Hardy(ジム・ハーディー)をはじめ多くの従業員が戦地に向うことになった。 ウィリアム3世はドイツ軍の捕虜となったため、終戦間際まで帰国することができなかった。

1942年の秋、賑わいを見せたペルメル店もドイツ軍の爆撃により灰と化し、ロンドンでの営業はシティ店のみとなった。 それでもジョンブル精神果敢な英国人は戦火をのがれて店に訪れ、キャスティングスクールも時差を利用し、爆撃の合間を縫って行われていたというから驚きである。

このような状況にあって、ローレンスは、女性工員を使って爆弾の部品など兵器の製造の傍ら密かに釣具の製造も継続したが、早い時期から機械化に着手していたため、戦時中の人手不足の中にあってもなんとか工場を稼働させることができたのは不幸中の幸いであった。 しかしながら、素材不足のためかほとんどの製品が底をつき、需要に応じきれなかったという。 この時期に製造された釣具の中でも、塗料の不足のため塗装を施さずにアルミ素材のまま仕上げた銀色に輝くリール、いわゆる「スピットファイアー」仕上げのリールは現在も人気が高く、中古市場で高値を呼んでいる。

新たな時代へ

第二次世界大戦は全世界に計り知れない被害をもたらして1945年に終結した。 ロンドンのペルメル店は跡形もなく焼け落ちてしまったため、ハーディーは長年ロンドンで行っていた顧客へのサービスをアーニックの本社で行うよりほかはなかった。 しかし、やがて戦地から戻ったウィリアム3世が経営に復帰し、またジム・ハーディーもウィリアム2世の後を引き継いで正式に入社することとなり、ローレンスの将来の後継者陣(3代目)が確立したのである。 ペルメル店は焼け落ちてしまっていたが、戦後の物不足、娯楽不足の時勢にあって、ペルメル店の再開について世界各国から要望が殺到した。そして戦争の生々しい傷跡が残るロンドンのペルメル61番地に全世界待望の新店舗が再建されたのは、1951年のことであった。

1957年にはローレンスが引退し、会社の経営はフレデリック、アラン、ウィリアム3世に委ねられ、やがてジム・ハーディーも経営者の仲間入りをし、1960年代になるとフレデリックが引退し、アラン、ウィリアム3世、ジム・ハーディーという経営陣ができ上がっていく。

戦後のロッド製造技術の大きな革命は、戦争の副産物として開発されたグラス樹脂の導入であった。 アメリカで開発された軽量で反発力に富むグラスロッドは瞬く間に世界を席巻し、1950年代の後半になると英国においても出回りはじめたが、伝統を重んじるハーディーでは当初この新素材を導入することには非常に慎重であった。 このような状況にあってハーディーの技術陣は新しい接着剤を開発し、従来のダブルビルド製法や中心に洋松材を入れる製法を使用することなく充分な強度と柔軟性を併せ持つパラコナの製法を完成した。 完全中空ロッド「ホロコナ」である。 そしてハーディーはグラスロッドが大勢を占める市場にあえて新製品ホロコナ(アメリカ向けの主力商品ファントムなど)を供給することで勝負に出たのである。 この試みは多くの支持を得るに至らずに終わったが、世界中のバンブーロッドの支持者のハーディーに対する期待は不変であった。 1965年には、本社のあるアーニックの都市計画により新工業地域に本社及び工場が移転し、同年4月に操業が開始されたが、この頃からベトナム戦争の激化によりロッドの素材であるトンキン竹の品薄が深刻化し、同時にグラス素材のロッドの導入についても真剣に検討する必要が生じていた。 しかしながらアメリカを中心に採用されていたエポキシ系のグラス素材ではハーディーの理想とする竹のアクションや柔軟性を引き出すことができず、理想的なアクションを得るためには自社工場による独自の素材の開発が必要であったが、これには今までにない大がかりな設備を必要とし、当然ながら大量の資金を必要とするものであった。 このため、1967年7月、アラン、ウィリアム3世とジム・ハーディーは会社を売却し、ハリス&シェルドングループの傘下に属することによって設備導入の資金を確保したのである。 ハリス&シェルドングループの傘下に属しても、会社の経営権はウィリアム3世とジム・ハーディーの二人(アランは、1967年で引退している。)に委ねられ、二人は資金を確保すると直ちにグラスロッドのブランク製造のための機械の導入、従業員の訓練に入り、英国内各地の政府機関の技術試験施設の援助のもとにフェノール樹脂を主体としたハーディー独自のロッド素材の開発に成功したのであった。 後にハーディーはグラスロッドのブランク製造部門を別会社として独立させ、生産されたブランクを買い取る方式を採用することになった。 現在のファイバチューブ社の設立である。

枯渇寸前のトンキン竹の供給について明るい見通しがついたのは1970年代になってからであった。 この頃、市場は第二の革命といわれるカーボングラファイトの時代に移行しつつあった。 かつてグラスロッドの導入をためらって世界市場に遅れをとったハーディーはこれに素早く対応し、1975年に最初のカーボングラファイトロッドを市場に送り込んでいる。 1872年の創業以来、ハーディーは伝統ある釣具のトップメーカーとしていつの時代においても常にフライフィッシングの世界をリードしてきた。 その創業以来のモットーは、常にユーザーに「最高のもの」を提供することであった。 このため、頑固なまでに旧式な考え方に固執することもあったが、ときには先んじて最新の技術を導入することも行っている。 あくまで伝統を重んじる姿勢とはいえ、そのことが必ずしも過去に拘泥することだけを意味するわけではないのである。

1983年にウィリアム3世が引退し、Ian Blagburn(ブラッグバーン)も引退した。 そして1992年には唯一残ったハーディー一族のジム・ハーディーも引退し、120年余り続いたハーディー一族による経営体制は終止符を打つことになった。 しかし、1872年に初代ウィリアムとジョン・ジェームス兄弟によって創業されたハーディーの偉大なる伝統と格式は、ハーディー製品のすばらしさ、その歴史と伝統を理解するユーザーのある限り着実に次世代へと受け継がれていくことであろう。

おわりに

この資料は元々はClub of Hardy Japan様が作成し、Web Pageに掲載していたものですが、Web Pageの整理に伴って掲載をやめてしまいました。 このような貴重な資料が消えてしまうのは残念でならないので、Club of Hardy Japan様にお願いして当Web Pageに掲載させて頂くことと致しました。


[Top Page][Index][Contents][Top]

Copyright (c) 風雲西洋毛鉤釣師帳, 2003,2006. All rights reserved.

inserted by FC2 system