荒井利治作品集

抜粋やぶにらみ続編

目次

  1. また香港アラカルト
  2. 時差が作る中古新聞
  3. 福神漬
  4. やぶにらみ瞥見新香港空港
  5. もういくつ寝ると
  6. ユーロは果たして欧州貨幣になり得るのか
  7. 十一面観世音風EUコインの登場
  8. 何日北京再来
  9. 釣具展示会東西顛末期
  10. 釣りを止めた口蹄疫

[Top Page][Index][Top][Contents]


また香港アラカルト

後四ヶ月でホンコンカーブの別名で呼ばれる啓徳空港も閉鎖されランタオ島北部の埋め立て地の新香港国際空港が開港する。 既に新空港と香港島とを結ぶMTR(地下鉄新路線の空港線)はほぼ完成しスペイン製の流線形新車両が搬入されている。 現在の市内線とは異なり新デザインの車両が空港と香港島を高速鉄道で二十三分で結ばれるので、現在の啓徳空港に比べてアクセスは格段に改良される。 ランタオ島と九龍半島間の海峡は東京のレインボーブリッジに似た車と鉄道の二段架橋染が完成しており、既に日本と周様、観光名所になりつつある。 休憩所や売店なども完備して香港カップルのデートスポットとなっている。
現在の地下鉄もこの空港線にあわせて既に新機能が導入された。 まずはプリペイドカード、日本のJRなどが販売しているQカードの様なプリペイドではなくマイクロチップを組み込んだ『オクトプスカード』で、自動振り込み機で既に所有するカードに入金して利用する、クレジットカードからの振替も可能。 自動改札機の読み取り装置に近づけるだけで、利用料金を自動改札機が差し引き残高を記憶させるもので、日本ではまだ実用化していない。 この方式の採用にあたり香港交通局は従来の地下鉄だけではなく香港島、九龍半島すべてのバス、九龍半島北部の軽便鉄道もこの一枚のパスで利用可能にした。 また通常の地下鉄の自動販売機も釣銭が出る様に改善し、行き先駅の表示に触れるだけで料金が示される様になった。 香港の地下鉄はこの一年で約三十パーセントの運賃値上げがあり、市民はこれらの開発費を払わされている様だと嘆く。
唯一価格が据え置きなのが交通機関では香港島の二階式市電で一ドル六十セントで固定している。 設備は悪く遅い乗り物であるが、車体中の広告収入が値上げを阻止している。 高温多湿の香港ではこの電車の二階で風に吹かれてのひとときは、ゴージャスではないが誠に快適な気分を味わえる。 ただし電車が続いてくるので、後続の電車に乗る方が快適で寿司詰めから逃れられる。 ただしうっかり顔を窓から出したりすると二階建てのバスに鼻をこすられる危険有り。

長年香港に来ているが入国審査場でわずか二分で通過出来たのは今回が始めて。 改めてこの国への観光客が減少している現状に驚かされる。 なにしろ日本語が飛び交っていた場所なのにあまり気にならない程になってしまっている。 勿論荷物も早々に戻ってきてすんなりと今回は空港を後にした。 ところが町中にはいるとまるで爆撃を受けた様な工事現場だらけの風景が点在していて何事かと確かめると、古い建造物があちこちで解体されて、再開発花盛り。 中国側の投資家が香港の賃貸の高額を見込んでビルラッシュに拍車をかけた。 しかしこのところの経済不況で工事が中断していて工事途中で放置されているものも多く、これが爆撃後の様な風景を作り出している。 そして隣を見れば竹竿で組まれた足場をバックに四十階建てのビルが全面ガラス壁面でそそり立っているのが今日の香港である。 経済不況は深刻化していて、会社などの倒産が激増しており失業者があふれている。 ヤオハンの倒産では一度に数百人の店員が職を失ったが、金銭に目ざとい香港商法はこの失業者の増大を利用して自社の旧雇用者を解雇して低賃金で新たに社員を雇用するなど実に巧妙な賃金カットを実現している。 現集に若い女性などは勤務先を変えるごとに賞金が下がる昨今だと言う。

香港人がやたら持ち歩くのが携帯電話で数年前からある種のステータスシンボルになっている。 香港独特の電話料金制度の産物で、この国では通常電話は固定料金制で毎月の基本料金を払うだけで、度数料金は国際通話以外には存在しない。 したがって何度掛けても同料金、どこの店でもレストランでも、電話を勝手に使用しても意に介さない。 最近は公衆電話なども多く見られるがこれは観光客用で市民は相変わらす寸借電話ですませるのであまり公衆電話に人はいない。 所栓小さな地域なので携帯電話はどこでも通話が可能で海底トンネルを走行中の地下鉄でも、あのにぎやかな言語が地下鉄のノイズに交じって独特の雰囲気をかもしだすが、乗客は平然と競馬新聞に読み耽る。
最近の流行はこれに電子メールがプラスされこの普及もすさまじい。 小学校の中等科で香港の子供達は電脳と書くコンピューターの授業が始まる。 したがって十五才の子供が平然とインターネットに取り組み、ホームページを作り出す。 小生の知人の十六才になる少年は週末ともなると世界中にインターネットで交信したり、小生宅に電子メールを送って来たりする。 香港では通話料金は固定のために、プロバイダーまでの接続に追加料金が要らず、わずかな毎月のプロバイダー手数料を支払うだけで、世界中と交信可能。 こんな国は香港だけの特例といえる。
九龍半島の著名ホテルのぺニンシュラの裏に同系列のカオルーンホテルがある。 このホテルはビジネスホテルとして当初建造された関係で各客室にコンピューター端末とファックス端末が装備されている。 投宿すると個別のファックス番号が割り当てられ自分の部屋でファックスの送受信が出来るので、大変便利でそのうえコンピューターでチェックアウトや勘定書の確認が出来るのも特徴であるが、近年さらに電子メールが付加された。 コンピューターで送信文を作成し、即時にプロバイダーに送付出来る。 料金はホテル故に割高で五ドルの市内通話料が必要であるが、接続手数料など一切ない。 したがってファックスの料金の一、二割で米国でも、日本にでもメッセージが送達される。 ちなみにこのコンピューターで勘定書をチェックしたが市内通話一回分以外なにもチャージされていなかった。 到着電子メールはファックス端末のプリンターから自動印字されて出てくる。 電脳とは云い得て妙なる文字であるが、それ以上に香港の人々がこれらを駆使する脳に驚かされる。
こんな気持ちから香港の電脳の世界の裏窓を見たくなるのは自然の成り行きで、今回は穴場を訪れて見た。 電脳市場が集まる香港のアキハバラは旺角、深水捗、湾仔の三ヶ所である。 いずれの場所も観光ガイドや日本で売られている香港案内書にはまず載っていない。 これらの電脳市場では、欧米、日本で知られるブランド商品だけでなく、販売されている商品も千差万別、台湾と香港合作機種や中国産のIBMプログラムまでなんでも有りである。 そのうえ凄いと思うのは豊富な海賊版の氾濫である。 CD-ROMや音楽CDの他、最も多いのがVCDと呼ばれる映像ディスク、日本などではレーザーディスクが主流を占めているが、香港では家のサイズの影響からかコンパクトな機材で使用出来るビデオCDが全盛となっている。 映像解像度などはレーザーに比べると悪いが視聴には十分で尚且つコピーや海賊版が作りやすい。 海賊版も中途半端じやない。 日本のアダルトビデオを始め、安室から木村拓哉、ヤワラチャンのアニメなどが所狭しとばかりに店頭を飾る。 凄いのは日本で現在ロードショー公開中のハリソン・フォードの『エアフォースワン』が十二月の段階で既に販売されている。 これらの単価は香港ドルで四〜五枚で百ドル、約千七百円である。 ジャケットタイトルは『変軍一號」スーパー字幕は広東語、ワイドスクリーン二枚組、その上海賊版行為、コピーや著作権侵害に対する警告までコピーして挿入してある念の入れ様で帰途の機内で楽しんでいたら日本人の乗務員が仰天、日本のアニメなどは全て日本語のままなので、字幕がある分だけ広東語の教材になる。
香港警察や公安などが時々手入れをするらしいが、店の数もおおく取り締まりはほぼ不可能でお手上げが現実、現行犯逮捕のために買い物客まで巻き込むので、手入れがあっても市民は一切協力しないし、安い娯楽を売ってくれる業者の味方でさえある。 これらのマーケットはいつも香港の若者達のたまり場で、見終わったVCDのバーターなど通路で繰り広げていて、ブランド指向で蓄膿症候群的会話しか出来ない日本の最近の女子高生などに比べると、素朴で青少年らしい親しみを感じさえした。

香港の現在の不況は香港人自らが作り出した要因も大きい。 一昔前は日本が買い手で香港などの発展途上国は多くの製品を低賃金で作り出し多大の輪出貢献をした。 多くの先行投資、工場などの拡大、雇用確保など香港の人々は努力を怠らなかった。 また、香港の高景気雇用拡大をはじめ所得倍増、公共物価の上昇をももたらした。 さらに産業に対しての多くのノウハウも得た。 ところがマンモス中国が工業化するにしたがって、香港の経営者は製造コストの削減と販売増を期待して、中国を利用する製造拠点の依存を模索し実行に移した。 さらに欧米や日本の企業までが香港を頭越しにして中国への投資を図り製造拠点を振り替えた。 その結果近年では香港における生産能力は大幅に低下し、永年にわたって培ってきた香港独自の製造概念、産業団地などは崩壊または消滅し、ただ中国で生産された製品の販売に依存する事になってきた。 永年に亙って培ってきたノウハウまでもが中国に移ってしまったからだ。 途上国にとって発展は武器であり、手中にした特権は返すことは無い。 香港商人はさらに目先を誤った、中国は香港を窓口にして将来にわたり貿易を行うことを信じ、夢見ていた。 ところが英国の香港中国返還に並行して中国からの直接貿易の拡大は予想以上に急激に増え、さらには中国系の商社が香港に開業して、香港商人ボイコットが歴然として来たのである。 中国経済人は既に香港なくしての貿易確保のノウハウを持ってしまっていた。 また中国では社会主義の中に資本主義を同化させる政策をとり、航空業界事業など今や数倍の規模になっており、空輸による貿易も多くの都市へ中国機が直接乗り入れており、香港経由は必須ではなくなっていることも無視出来ない。 多くのレイオフ、倒産など香港の今日を見ていると中国を利用しようとはじめた香港商人の策は見事に裏をかかれ、技術力、販売力の両方を中国に略取されてしまった感がある。 勿論世界に知られた香港商人のことだからこのままでは終わらないだろうが、さらなる中国による香港の変貌はまもなくやってくると思わねばならぬ。
英国の香港返還からまもなく六ヶ月、元の地元民、英国人は滞在査証の延長申請が必要になった。 いまや外国人である英国人は日本人などと同じ扱いになっており、特権は存在しない。 その上従来の雇い主が就業に関して身元保証の継続を躊躇するケースも多く、英国パスポートの人々は香港を離れる例が次第に多く見られる。 十余年にわたり香港に行くと立ち客っている英国風居酒屋パブのバーマンも英国人から香港人や豪州人に変わって来ている。 同じ青い目で元英国植民地であった香港と豪州だが、彼らの英語はまるで違う。 香港の英国人は俗に言うキングスイングリッシュであって、判りやすかったが、豪州人は先人がロンドンのコックニー訛りを持ち込んだためか、今ではロンドンでも少なくなった下町言棄のコックニーが巾をきかせていて理解するのに難儀する。

滞在中に香港では中国の国会に当たる全人代の役員の選挙が行われた中国の一員となった香港では当然であるが、全人代に議員を派遣し国益を反映する行政が要求される。 案の定当選したのは新華社香港支店長など全て中国本土系の息のかかった人々で、反体制派はひとりも当選しなかった。

中国大廈(中国銀行香港支店)の正面と裏口玄関には大きな祝賀聖夜と恭賀新年の節り付けが美しかった。 面白かったのは戸外の電節文字がすべてこの銀行のビルにむかって点灯していることで、通常は一般に見て貰うためにビルは背にするものなのにと考えこんでしまった。 なんとなく臣民がお上に向かって挨拶を送っている様で興味深かった。 香港通貨を発行している元英国系の香港上海銀行はモミの木一本が立っているだけで、電飾も出来ていなかった。 こんなことはいままでなかった現象である。
この香港上海銀行の前にプリンスビルがある。 有名な欧米ブランドが軒を競う場所で香港の中環(セントラル)の一等地である。 このビルの地下に昔から金融界や香港在住英国上流階級の人々が集うバーとレストラン『ベントレーズ』がある。 金曜日の午後五時頃はこのバーには、ダークスーツの紳士が帰宅の前の一杯に立ち寄り混雑をきわめたものであった。 ところが今回訊ねてみると客は一組だけ、それも女性を合めた四人組で嬌声をあげながらカードを繰り広げている。 一昔前なら紳士間から文句が出たものだ。 バーテンダーも何も云わず、小生の注文を受けながらポツリとハッピーアワーはありませんとつぶやく。 午後四時から七時頃までは以前はハッピーアワーといって飲み代が半額になった。 武士は食わねど的なジョンブルな風格を残しながらも、この客足では半額にするほどのゆとりは残っていないらしい。

昨年間もなく変わる香港をレポートしたが、予想した以上に変遷していく香港に驚くとともに一九九八年も気が許せない一年になりそうだ。 今掌のひらに香港の新しい一ドルコインがある。 新生香港のシンボルの花柄と一九九七の年号が刻印されたデザインで仕上がっている。 五十年は不変と言われた最初の年に既に変調が現れている。 クイーン・エリザベスも王冠もないこのコインに何時星のマークが追加されるのか気になる。 もういくつねるとが........再び起こるの

(平成十年)


[Top Page][Index][Top][Contents]


時差が作る中古新聞

一九六九年日本航空の最後のプロペラ機DC-7Cが羽田の東京国際空港を離陸し、日本と米国の間は以後すべての航空便はジェット化された。 いまはなきパンアメリカン航空がボーイング707を太平洋路線に投入して以来既に数年を経過しており、優位に立っていた。 7Cは米国の名門ダグラス社の銘機であったが満席の乗客の時や、天候の具合ではハワイのホノルルまで直行が出来す、給油のためにウエーク島を経由した。 当時この島には米国空軍が駐屯していたが、旅客施設はないために、機内で給油待ちを余儀なくされた。 既に常夏の地であり薫風と油の匂いが機内まで流れ込んできて、日本を遠く離れた事を実感させた。 羽田で乗り込む時に持ち込んだ朝日新聞は時差と日付け変更線の関係でウエークでは、同じ日の新聞となった。 本当は日本を出てすでに七時間を経過しており、日本では翌日になっていた、時差を認識したのはこれが最初であった。 プロペラ時代とジェット機時代では、機内客室の配列が反対だった。
プロペラ時代には、後部席は上席で前はプロペラの騒音を真面に受けるエコノミー席であった。 ジェット時代となると、音速に近いスピードで飛行するために騒音はエンジンの後ろに生じることとなり、上席は前側に移動した。 勿詮ジャンボの時代となるとエンジンパイロン(取り付け機材)が機体と離れているためにさほどではなくなったが、DC-8の時代には、エコノミー席はもろにエンジン騒音と振動を受け、決して快適とは言えなかった。

欧米を旅して帰途の東京便に搭乗すると、なによりうれしい歓迎は二日遅れであっても日本語新聞が迎えてくれる事だった。 殺人事件や米国大統領の動静については出先のテレビで知ることが出来ても、まず米国のテレビニュースで日本の事を放送してくれるのは、大型台風の首都圏襲来とか地震程度で国内政治や日本の刑事事件などはまず判らない。 欧州でもしかりでマギー・サッチャーが日本に来た事はニュースになっても日本の新幹線でも転覆しない限り、テレビニュース枠にお邪魔することはない。 久方ぶりの三面記事から天声人語を読む頃には、いつのまにか滑走路を離れた搭乗機は三万三千フィートに達していたりする事もあった。 時折滞在先の日本食レストランや日本航空の支店待合室で新聞を読ませていただく事が、ニュースに飢えた旅行者のオアシスであった頃が今は壊かしい。
一九七四年の事、ロンドンからの帰国便は南回りという地獄コースであった。 既に北極経由でジャンボ機も就航していたが、予約の仕組みが悪かったのか延々二十五時間のフライトとなった。 搭乗機は天皇陛下のお召機にもなったDC-8Cで今で云うナローボディー型、ロンドン離陸後機上で配られた新聞は三日前のもの、既に往路で読み回されたものであったが、無性に日本語がうれしかった。 ローマからカイロは日本語新聞はなくイタリアの新聞のみ、ローマ字の羅列でしょうがない。 其のうえカイロではテクニカルランディングと呼ばれる給油のための立ち寄りで機外には出られなかった。 スフインクスとピラミッドの間を擦り抜ける様に赤土の中に着陸し、タラップの下ではカービン銃をもった兵士が警備していたのが印象的であった。

カラチでの休憩時は、待合室に禁足されてジュースが配られた。 二日前の新聞が数部おいてあり、乗客が先を争って回し読みした。 どこからか聞こえてくるうなり声がコーランの響きと判る頃、再び機上案内があり、機内に戻った。
ニューデリーでは深夜にもかかわらす、搭乗待合室の便所にまで乞食が物乞いしている姿があり、驚かされた。 早暁のニューデリーからバンコックまでは、これでもかとばかりに揺さぶられるフライト、バンコックにたどり着いたときには機長もさすがに疲れた様子で、お互いに安堵した。 香港につくと乗客のほとんどは免税店に直行、前日の日本語新聞やスポーツニュースなとも数種類揃えられていて、次は日本だなと実感する。 飛び立つ事には通路はあふれんばかりの免税品、今思ってもこの当時はどうして皆はこんなに免税品を買ったのか、また香港・東京間は相当機体重量も増したのではと思う。 税関に向かう行列はまるで出稼ぎ部隊を連想させた。 自分もそのひとりだが。

一九八〇年代後半から日本のNHKを含むテレビ会社は海外の中継会社などと提携して欧米で日本のテレビ番組を放送することになった。 当初は一日二、三時間のニュース専門のプログラムで時間をおいて数回同じ番組を流す程度であった。 しかしながら、日本のNHKニュースが見られると言うだけでも、欧州や米国に住む人々や旅行者にとって、貴重な情報源として歓迎された。 勿論この頃は録画番組が当然で、日本からのライブ中継などは大晦日の紅白歌合戦を除けば皆無であった。
また、後を追うように、日本の主要新聞社が欧米での現地印刷を開始した。 それまでは毎日日本から航空輸送で主要国に新聞が空輸され現地ではニューススタンド、日本食品店、日本レストランなどで販売されるものと、日本の宅配の様な郵送による配達がおこなわれていた。 基本的には毎日の最終版が送られたが、当時米国では同日の新聞が一部地域では読むことが出来た。 これは日米の間の時差は十五時間またはそれ以上あるためで、逆に英国ロンドンでは一日半遅れた新聞がピカデリーのニューススタンドで販売された。
日本人旅行者、ビジネスマン、海外在住者にとって日刊紙の現地印刷はまさしく福音で日本との時差や、配送時間をショートカット出来るものと期待した。 ところが現在では、英国では希望通り同一日付新聞が読めるが、米国では逆にカレンダーと同様に日本の今日は米国では前日になる関係から、全ての記事が一日遅れとなっている事が判った。 日本の主要新聞社は欧米の大手新聞社と提携し、それらの印刷所の協力を得て現地印刷を行い、配送ルートも提携先の協力を得るとともに、郵送による宅配も並行して実施している。 欧米の主要紙も同様に日本の朝日や日経新聞が日本において欧米紙の同日印刷を行っている。 日本の新聞社の東京本社では最終版を海外向けの広告など一部の手直しを行って、ファクシミル転送により、提携先の例えばロンドンのファイナンシャルタイムス社に伝送する。 受信した写真は紙面サイズの鉛版ドラムに仕上げられ、即時に輪転機にかけられ印刷が開始される。 東京でのファクシミル転送から二時間後にはインクの匂りが残る日経新聞がロンドンやロスアンゼルスで読むことが出来る。
さて、ここで現地印刷の新聞はどの程度まで届けられているのか調べて見よう。 朝日新聞を例にすると、現在ニューヨーク、ロスアンゼルス、ロンドン、ホンコン、シンガポールなどで現地印刷されている。 ニューヨーク版は同州始め、ワシントン特別区、東海岸側の数州、シカゴ、フロリダ、アトランタなどには早朝から午前中に届けられる。 ロスアンゼルス版はカリフォルニア全域、シアトル、ラスベガス、ソルトレーク、デンバーなど同様の時刻に到着する。 ロンドン版は市中を中心としての陸送部門と、欧州各地へ空輸である。 パリ、フランクフルト、ジュネーブ、ローマ、アムステルダムなど欧州の拠点都市にはほとんど配送が早朝に行われる。 セーヌの河岸のカフェでクロアッサンと朝日新聞の朝食も今や普通の事。 この欧州主要都市への販売は特に航空会社にとってサービスに直結する重要な点で、多くの日本人搭乗客へ提供する機内エンターテイメント材でもある。 ホンコン、シンガポールも同様で、在住日本人向け、旅行者、そして航空機搭載新聞として重要なものになっている。 何分にも日本の週刊誌はヌードを掲載する関係で、欧米航空会社は雑誌を搭載しないので、新聞は必要不可欠のものになっている。
最初に述べた通り世界の都市と日本の間には時差が存在する。 一番日本人在住者が多い国のひとつブラジルとは十二時間の時差が生じる。 そこで新聞のファクシミル写真の作られる時間と現地での出来上がり時刻を考えて見よう。
朝日の東京本社の朝刊、最終版仕上がりを午前一時としよう。 時にニューヨークは前日の午前十一時、ロスでは午前八時となる。 ロンドンは午後四時である。 それぞれに二時間の作成時間を加えると、ロンドンでは午後六時に翌朝の新聞が出来上がる事になる。 ロンドン朝日では、すぐに欧州各地に午後八時前後のフライトに新聞を搭載し、欧州主要都市に空輸を行う。 午前〇時までには、アフリカの一部を含む欧州各地への配送が完了してしまう。 新聞は日欧の時差八〜九時間を得ている関係で同日の日付けで発行される。 ロンドンのホテルでは午前二時には各客室に朝刊が届けられる。
では米国はどうなるか、ロスの例を考えて見よう。 東京で午前一時に作成、ファクシミルされたドラムは現地では前日の午前八時、つまりそのまま印刷すれば明日の新聞になってしまう。 また見ぬ明日のニュースを米国では読まされる事になる。

そのため米国版については、ロンドン版より約半日遅らせて午前十一時頃、タ刊の一版記事を含めて朝タ刊の合作版を構成し、伝送する。 つまりここで既にニュースバリューは半減してしまう。 ロスで午後六時ニューヨークで午後九時に入電した東京朝日からのファクシミル国際版はドラムに移され、輪転機に回される。 この約半日のブランクは、米国では違和感はないが、実は最近になってなぜこの様な中古ニュースばかり見せられるのかと、疑間を抱く読者が増え出している。 地域によっては国際版発行以前の方が最新ニュースを入手出来ていたからである。 時差と無時差(ファクシミル電送)の弊害である。
最近はオンライブとか、生中継とか云われる時代で、米国のメジャーリーグの試合も日本で居ながらにして同時中継される。 CNNに代表されるニュースもBSなどで一日中見ることが出来る。 特にCNN国際版チャンネルは世界の主要ホテルで視聴出来るものとして信頼されている。 ところが、米国のホテルなどで視聴する日本系列のテレビ番組は前述の新聞同様、米国側の中継会社で十五〜二十時間遅らせて録画放送し、日本との時差を調整しているためにすべてのニュースなどは中古ものになっている。 例えば日本とホノルルは十九時間の時差がある。 したがって毎朝の番組は相当時間遅らせて放映される。 新聞も同様で成田を午後九時に出発した飛行機に十日の朝刊を持ってホノルルに着くとしよう。 現地は朝の九時、空港のキオスクではやっとロスから到着した国際版の日系紙を解梱してならべているがこれが東京で前日の夜持って来た記事と同一のもの。 オンライブであればハワイの午前九時は日本の午前三時、十一日の朝刊は既に配達態勢に入っており、ロスでも印刷出来る時間。 でもカレンターの関係でロスで印刷するのは、十数時間後となる。 そうしないと十日に起きた事件やスポーツの結果が十日の朝刊新聞に掲載されるこになり、タイムトンネルを越えた新聞が誕生してしまうのである。 米国では新鮮なニュースを中古にしないと、日付けがあわず、ゆえに現在新聞、テレビ共時差調整のため中古全盛になっている。
この秋ハワイのテレビでメジャーリーグの最終ゲームの頃、CNNではマグワイアは七〇本のホームランを飾って大騒ざなのに、NHKの松方アナウンサーは六十八本の記録を称賛している始末。 ABCストアで買ってきたアメリカ読売には同様の結果しか掲載されていない、USA TO DAYは七〇号ホーマーは大見出しでカラカウァ通りの無料日本語新聞には明日の日系紙のニュースになる長銀事件が掲載されている。
今回宿泊したホテルのテレビサービスのチャンネル案内に例によってポルノ映画、有料映画などの他に、ライブ日本のテレビというチャンネルを発見した。 映画などと同様に一日十ドル程度支払うと、十九時間の時差を飛び越えて、現在の日本のニュースが見られるとの事。 でもビキニスタイル鑑賞者にとって、小渕さんのニュースは急ぐことではないので、十ドルは節約した。 東から西に向かうと、時差は苦痛を感じさせないが、西から東への移動は、時差をもろに感じる人が多い。 これもさらに欧州から日本へと、日本から米国へとの移動には日付変更線のあるなしで、微妙に違いがある。

この明日の新聞の話を全日空のサンフランシスコのバーテンにしたら、サンフランシスコで売るのであれば、明日のフットボールの結果がどう書かれているか教えてくれとジョークが返った。 トトカルチョには事前通報は大変重要だとのこと。 さすがチーフバーテンダー。 さらに彼が一言、明日の新聞はいくらするんだと聞かれた。 一部二ドル六十セントプラス税金、日本円で三百五十円。 年間購読となると莫大な額で米国の新聞の五〜八倍になる。 米国在住者は宅配だと毎月約五百ドル(六万円余)を購読料として取られる。 その新聞の記事は米国の新聞に比べて米国で印刷していながら一日古いニュースで埋められていてはたまらないと思うのであるが。 記事内容も年々変化してきて東京での編集も米国、欧州、アジアと地域に合わせての編集が進んでいる。 文化欄など確かに日本語に飢えている海外在往の人々にとって必要不可欠と思われるのであるが、最後の不思議は欧米で発行されているすべての日本の新聞にテレビ、ラジオ版が堂々と二頁占めている点。 ほとんどの新聞は東京べースの番組表で、NHKから各民間局、そしてUHF局の千葉や埼玉までの番組が掲載されている。 どう考えても不可解なのは、新聞を入手した時刻にはこれらの放送は日本では全て終了しており、掲載理由が理解出来ない。 明日の番組であれば、国際電話で録画も頼めるが、米国でこの番組表を見るときは、日本テレビの鳩が舞った後。 閑話休題、普段気にもとめていなかった明日の新聞があるのを知ったのは、米国でのこの事があったからで、タ刊フジ、日刊ゲンダイ、東京スポーツなどの新聞はすべて翌日日付けで発行されている。 テレビ番組表は発行日のタ刻からのもの、発行は前日という雑誌同様の先付け。 なぜ時差のない日本でこの様な新聞が出来たのか、理由を知る人がどの程度いるのだろうか。

(平成十年)


[Top Page][Index][Top][Contents]


福神漬

故あって四月から五月にかけて生まれてはじめて入院生活を味わった。 どこでも同じなのだろうが、病院食というのは人間の嗜好をまったく無視しての薄味で、青菜を味も付けずに、食すことにも出くわす。 キッコーマン人生で過ごして来たものにとって、出される食事の内容よりも味付けがなんとかならないかと思うのは、入院患者皆同じで、ベッド脇の小物入れにはだれもが押しなべて、醤油や梅干しをこっそり忍ばせている。 そんな入院生活の最中に、隣の同病哀れみの患者からいただいた福神漬は、天国から差し入れられた逸品の様で、退院後の今でも舌にその味わいを残す。
約五十日の床病生活でライスカレーが出たのは一回だけ。 勿論福神漬が添えられていたが、それ以外は毎日青菜や香の物が出ても、福神漬が顔を出す事はなかった。 病院食はすべてカロリー計算が行われる関係か、塩分が多いのか知らないが、福神漬は一品として認知されていないのではないかと自問自答するはめになった。 普段気にとめていないのに入院生活で福神漬が気になったのは、いかに病院食が通常と違うものかを教えてくれた。

江戸末期の上野の町でも、特に広小路と呼ばれる地域は遊興の町として下町の一角をなしていた。 食い物やも多く連玉庵の蕎麦屋、寄席の末広亭(のちに鈴本も誕生する)などとともに、漬物と煮豆を商う酒悦が古くからこの界隈に軒をならべていた。 不忍池などの賑わいが聞こえてくる場所であるが、上野は谷中、根津、根岸など大根をはじめとする江戸野菜の生産地にも程近い地であった。 切り干しの大根、ナタ豆など七種類の乾燥した野菜を甘く味付けしたたまり醤油に漬けて仕上げたのが酒悦の福神漬で、当時から谷中にある七福神の寺杜から名前をいただいて、酒悦では福神漬として売り出した。
いまでもそうだが、この福神漬は二種類ある。 ビン詰などにされる上物と、キロ単位で包装されている安物があり、前者は進物や詰め合わせなどにされる、後者は業務用として食べ物業界に多く使われるものと、酒悦では戦前から縁日などの特売品などによく使われている。 上物は漬け込み期間も長いので、色濃く仕上がっており、素材に十分味が染み込んでいて美味なものだが、安い方は紅を使用している関係と、漬け込み期間が短いので、色合いが派手な感じが特徴。 居酒屋でも、食堂でも香の物、お新香はメニューとして存在するが、福神漬はなぜか金を取る商品や一品として献立に載る事がないのはなぜなのか。 価格的に考えても、紅生姜などにくらべればコストの点でも高く現実に牛ドン屋のカウンターには福神漬は置かれていない。 勿論牛丼の本来の香の物は浅漬の野菜が本流で、紅生姜は吉野屋あたりが考えだした安直なサービス。 普段ほとんど福神漬を食べたくなる事はないが、ではライスカレーの添え物以外に用途がないのだろうか。

断りもなしに戦後、誰云うとなく支那ソバは中華ソバになり、ライスカレーがカレーライスになった。 もともとライスカレーは下町の洋食屋とか、そばやの店屋ものとして生まれ、クロンボの商標のSBカレー粉の普及で、家庭料理となった。 ちょっと煮えが足りないニンジンや、ジャガ芋が入っていつもおふくろは小麦粉を入れ過ぎるので、翌朝残ったライスカレーを食べるときは、暖めなおすのに水を足してもどさないと、ダンゴ状になっていたのが伝統的な家庭のライスカレーであった。
たまには気取ってラッキョが二、三粒添えられていることがあったが、福神漬はライスカレーの友として、不可欠の存在で、皿の協にわずかに福神漬のたまり醤油の色が残っていることが、カレーを食した証拠でもあった。

カレーライスと呼ばれる様になってからは、一輪車のミニチュアの様な入れ物にカレーが入り、気取った食堂などでは、ライスを盛った皿と三種の神器のごとく小付け皿に福神漬、ラッキョ、紅生姜を添えて出すのが当たり前の様になっている。 銀座あたりの場違いレストランでは、ピクルスなどを加えているが価格的にもあれはライスカレーやカレーライスではない。 ウエッジウッドの皿で供される様な料理ではないし、あえて云わせてもらえば福神漬の立場がない。 さらに近年ではこの神器をカウンターなどに置き、客が皿に盛り分けて食すところもあるが、全部たいらげてよいものなのか、ラッキョは何粒までが適当な取り方なのか、ご存じの方があれば伺いたい。
また、全国のカレーライスに使用されている福神漬が実は九〇パーセント以上偽物である事をどれだけの人が知っているだろうか。 今はやり言葉になっている知的所有権を福神漬も持っていて、立派な商標なのである。 商標権は酒悦のものである。 勿論上野の漬物屋が全国の要望に対して百パーセント供給するほどの規模ではないが、これほど偽物が横行している食品も実は珍しい。 おそらく百を越える漬物業者が類似の物を商品化し各業者はそれぞれ名前を付けているが、まずその業者がつけた名前で呼ぶ事はない。 現在では日本だけでなく、ハワイでも米国でも欧州でも日本料理が蔓延しており、カレーライスも日本の料理のひとつとして定着しているが、本物の福神漬はほとんど使われていない。 北野タケシの経営するワイキキのカレー屋で出されるカレーライスに付いてくるのは、ハワイ産の福神漬もどきである。 大手漬物食品業者のなかで新進漬と名付けたものがあるが、これもだれひとりとして、ただしい名前を呼ばない。 業者も勿論承知の上で、福神漬と呼ばれる事で安堵している面がある。 また本来福神漬は前にも述べたが七種類の素材をミックスしているのであるが、ひどいのになると百パーセント大根とわずかにゴマが入っている程度の粗悪品もある。 が人々はこの点について眼中にはなく、ライスに添えられた福神漬風味の漬物に満足しているのも、実に不思議である。

昭和三十年の前半の頃、勤めの関係で麻布の狸穴まで毎日通勤していた。 当時狸穴の坂下に『暮らしの手帳社』の編集部兼研究部があり、名編集長と言われた花森安治さんがおられ、何度かお話しする機会を得た。 合理主義者の氏からいろいろご教示を得たが、いまでも忘れられない逸話として、同誌に掲載された『小林一三と福神漬物語』がある、若輩ながらこの話に感激して一夕お話しを伺った事がある。 氏もこれだけは後世に伝えたいと、遅くまで取材のときの事など話して下さった。 今思い出すと同氏が逝去された頃の事だ。 たまたま入院中に雑誌『東京人五月号』が発売され、小林一三特集が組まれていた。 宝塚歌劇、阪急電車、第一ホテルなどを経営され、また商工大臣なども歴任された方で大衆のなかの実業家として知られた人である。 勿論、この特集で福神漬物語が載っているのではと期待したが、発見出末なかった。 そこで福神漬やぶにらみとして、花森さんの意志をこの機会にお伝えしたいと思う。

小林一三(以下小林と省略する)は、明治六年山梨県の韮崎に生まれたが、二十才の時、大阪の三井銀行に勤務した事が縁で、以後大阪の開発を中心として壮年期活躍された。 五十才の頃には、多くの事業に成功し阪急電鉄の経営も軌道にのり、宝塚大劇場を竣工、今日でいういわゆるテーマパーク・ルナパークを開業した。 また大正十四年には梅田の阪急ビルに直営マーケットと大衆食堂を開いた。 小林の構想は、大阪の中心部梅田と郊外を結ぶ鉄道網の整備、終着地域におけるレジャーセンター、そして沿線の住宅化と不動産業の拡大があった。 昼は大阪に勤め、沿線に住居をなし、休日は家族で遊園地やレジャー施設で過ごすという、一貫した流れを大衆に与える事により、阪急の繁栄を夢見ていた。 日曜日となると大衆食堂部が調理した仕出し弁当の屋台を駅頭に出し、遊園地に向かう家族連れを客とした。 大阪寿司特有の酢めしの香りが駅中に漂い、多くの人々に利用された。 運動会の時期になると、早朝からこの弁当販売を準備し、電車の増発や大衆食堂の時間延長をはかるなど、食文化の地と言われる大阪の人々に広く受け入れられたのである。 昭和四年には梅田に阪急百貨店を開業し、最上階には大衆食堂をオープンさせた。 デパートが本格的に食堂の営業を始めたのは、阪急が最初の事である。 小林は自分の事業に関しては周辺が驚くほど、小まめに顔を出し、直接関係部署に指示を与えたという。 特にメニューについては安価で安直な料理を中心として構成し気軽に大衆が利用出来ることがターミナルのデパートの食堂の骨子であると疑わなかった、また社会の要望、経済の動きなど大衆の心を知るすべとして、阪急の大衆食堂は生きたデータを得る貴重な場所でもあった。 無駄を戒め、関西人としての生きザマを見せつけるかの様に食べ残した物を持ち帰れる様にサービス容器なども準備したという。

関西の雄として、阪急の示した大衆への姿勢は大阪の人々に次第に浸透し、阪急ファンは急激に増大していった。 時の日本経済は暗雲が漂う大恐慌につながりはじめていた事など、阪急だけを見ていると無縁の様に思われた。 昭和六年、阪急ビルの増築が完成すると、小林は躊躇せずまず大衆食堂の拡張を行った。 不況の深刻さを増して行く市中を配慮して、彼のモットーでもある低価格の食堂の必要性が増すと判断したからだ。 またこの頃から現在の東京電力の前身である東京電燈や目蒲線などの取締役に就任するなど、東京と大阪を往復する生活となり、日課としていた阪急の大衆食堂への日参がむずかしくなっていたが、営業状態についての注意を怠らなかったと言われる。
大衆食堂の拡張後のある日、小林は客数の増大や管理経費の膨らみに比べて売上の下落に驚いた。 毎日の新聞は昭和の恐慌記事があふれ、農家の婦女の人身売買、自殺事件、失業率の拡大などのニュースにも、人々は無関心を示す呆然とした社会になっていた。 大阪に戻った彼は自宅にも戻らず阪急の大衆食堂に直行した。 駅頭には既にピークを迎えた大恐慌下の民衆が群れをなしていたのである。 食堂の前に立つと、多くの人々が列をなし食券を求めていた。 小林はそんな人々を見て安堵するとともに、自分の進めて来た大衆のための安価の食堂経営が間違っていなかったと、自負したがその安堵感はわずか数分で打ち砕かれたのである。

当時、阪急百貨店の大衆食堂の最も安いメニューはライスカレーで、ほとんど翌日に残す事なく売り切っていた。 ところが厨房に入ると黄昏が近い時刻でありながら大鍋のカレーはほとんど売れ残っていた。 長蛇の列の客が求めていたのは『ライスカレーのカレー抜き』と呼ぶメニューにないものであった。 つまりライスだけの注文である。 毎日の食事にも事欠く状況まで、恐慌の波は大衆に及んでいて、いかに安く食事にありつくか、人々は苦悩していたのである。 勿論、食堂のメニューにはライスがあったが、人々はこのライスを注文せず、あえて『ライスカレーのカレー抜き』を求めるのには、深い思慮があった事を小林はすぐに納得した。 つまりキーは福神漬であった。 ライスの注文ではつかない福神漬がライスカレーであれば当然のごとくライスの脇に添えられている。 人々は、この福神漬をおカズにして飢えをしのぎ、またライスを食べたのである。
阪急の食堂部でも最初はこの注文の意味がわからなかったが、食堂の主任は人々の窮状を知り上部に報告することなく、ライスと同額で『ライスカレーのカレー抜き』の注文に答えたのであった。 小林はこの食堂主任を呼び称賛を与えるとともに、後にこの主任を重役に重用したと言われる。

小林はその時の感想として、恐慌は永久には続かない、今、阪急のライスカレーのカレー抜きを得て生き延びた人々は、必ずいつか阪急の顧客として沿線に住居を持ち、末長く阪急のためになってくれる。 人々の窮状を反映させてこそ、大衆食堂の生きる道であり、百貨店が継続出来るし、人々に愛される様になろう。 大衆はウソをつかない。 この事は阪急が人々とともに歩む礎としてこれ以上貴重な宝物はないと述べたという。
小林は即座に食堂のすべてのテーブルに丼で山盛りにした福神漬を無料で供し、さらにライスの価格を引き下げた。 暮らしの手帳社にはこの記事の掲載後、ライスカレーのカレー抜きで生き延びた人々大阪の人々から多くの来信があり、花森編集長に、カレー抜きの会の結成の呼びかけまで寄せられた。 来信された人々の住所はまさしく小林の予言通り、いまや関西の山の手と云われる芦屋、箕面、宝塚などに住む人々であった。

昭和八・九年には、小林は東京電燈の社長となり、また日比谷映画劇場、有楽座、東京宝塚劇場などを次々竣工させ、日本の小林としての地位を不動のものにした。 東京宝塚劇場でも、場所には不釣り合いとも思われた大衆食堂を営業し、ライスカレーがメニューの載せられたのは勿論であった。 この時もテーブルには福神漬が置かれていたと言われるが、小林にとっては自分の宝物を東京進出に際しても、忘れ難いものであったに違いない。 たかが福神漬されど福神漬である。 氏はその後も東宝、江東楽天地、第一ホテルなどの経営に参画し、国務大臣などを歴任し、八十四才の生涯を終えた。

(平成十年)


[Top Page][Index][Top][Contents]


やぶにらみ瞥見新香港空港

スターフェリーの脇を大会堂に沿って抜けると、女王陛下の軍隊である英国軍の宿合や兵舎、そして中核となるプリンス オブ ウエールズビルがあって、衛兵が一昨年までは不動で佇っていた。 小さな衛兵交替式も見かけたものだ。
過日この前を通ると、兵舎のすべては取り壊され、サラ地になってしまっており辛うじてプリンス オブ ウエールズビルが残っているだけで、英国の植民当地時代の片鱗は既に消えている。 市中の郵便ポストも一部をのぞいて赤い色のものは姿を消した。 赤い郵便ポストはいまや英国本国と日本そしてシンガポールなど若干となった。 ドル堅調の影響か観光客が激減している最近の香港ではアメリカン英語が花盛り、米国からの観光客だけがやたら目に付く。 変な話だが以前香港で聞く英語は英語であって米語ではなかった、勿論豪州の連中が喋るコクニー訛りはあるが、米語ほどにぎやかではない。 いまや空港に米国機と中国機が多数飛来し、北京語と米語が皇后大道中や弥敦道に溢れる。 中国政府は穏便にして着実に香港に変化をもたらしている。 地上げ、家賃値上げの結果、多くの小市民の仕事を取り上げたり、廃業に追い込んだりして確実に中国からの資産へと変換を続けていると香港住民は云う。
以前にも述べたが、英国系住民の締め出しは継続されていてパブなどで職を得て居た人々はパブの倒産で職を失っている。 巧みな操作で英国系のパブなどが閉店に追い込まれている様だ。 居抜きで経営者が変わり、次に周辺の業者も店を閉め、まとまった土地を買い占めてビルに変わるのが最近の典型的パターンとなっている。 また、高層住宅の建設は依然として順調で好条件の物件は抽選で入居になっていて、片や不況にあえぐ面と相対しているのが最近の香港でもある。
九竜地区の一流ホテルの宿泊料金は九八年三月が千四百ドルだったのに、十一月には七百五十ドルまで下落。 町中どこもが季節外れのセールだらけ、どうなっているのかと心配しながら新空港プロジェクトをやぶにらむ事にしたが、このプロジェクトに関する限り、中国政府香港特別行政区の手腕に拍手を送りたい程の見事なスタートである。

一九九八年七月四日、香港は一九三○年代から使用してきた啓徳空港を閉鎖して英中最後のプロジェクトといわれた新国際空港チェクラプコクエアポートを開業した。 香港島の西側に位置するランタオ島の北側で面積は九龍半島の租借地とほぼ同じ広さを持つ。 永年にわたりホンコンカーブと呼ばれたビルの間すれすれに離着陸するコースを楽しんできた旅客にとっては、新空港はまるで勝手が違い他国の感じさえする。 なんとも広いのである。 東京からのフライトではランタオ島上空に達する前に下降をはじめ同島を東西に横切る。 再び東シナ海に出た後に右旋回を行い、最終着陸態勢を取る。 従来ではこの高度ではビル群が両側の窓に展開していたのであるが、いまや海だけがあるのみ。 やがて軽い揺れと着地の振動、逆噴射で新香港空港に到着となる。 新空港の構造は三層階のボーディングデッキ部分と七層階のターミナルビルで構成されている。 丁度アルファベットのY字形にボーディングデッキが伸びている。 Yの先端部分の両側にジャンボが両側に十機程度係留出来る設計で日本航空、ユナイテッドなどが現在V部分の左側を使用、階上には日本航空のサクララウンジなどが設置されてる。 右側は現在も工事が続行中でまもなく開業となる。 中央のY字の足部分にあたる場所にも二〇機以上が直接ボーディングブリッジで接続される。 開港時では三十八の登場橋(ボーディングブリッジ)が設置されるが早晩四十八に増設される。
Vの付け根部分から足の一番下までの約一キロの部分を無人地下鉄で結んでおり、到着や出発旅客でV部分の搭乗口を利用する人々や、到着客の輪送を行って居る。 啓徳時代から香港空港の利便的方式である到着客と出発客を別階通行とする方法はこの空港でも採用されていて、到着・出発の旅客はぶつかる事がない。 ボーディングブリッジの先端を上下階に振り分ける事によりワンウエイを作り出している。
このシステムだと到着客と出発客が接触する機会が激減するので、東西の冷戦時代には随分役にたったとの事。
この空港はターミナルビルを挟む様に二本の滑走路は北、南に敷設されている。 現在は南のみ使用しており、北側滑走路は一九九九年オープンする。 滑走路だけでも、日本の玄関である成田、関空の一本ランウェイを上回っている。
新空港は当初から二十四時間営業空港として設計、開業した。 世界の流れは各国が地域ハブ化最優先をもくろんでおり、香港だけに限らす、新ソウル、台北などお隣でも空港の拡大化を進めている。 開業後二十年を迎えるという状況下でわずか数名の農家のごきげん取りで、滑走路一本追加出来ないでいる我が国とは、国際化の意識がまったく違う。 規模や関連設備の巨大投資を目の当たりにしてあれだけ反対をしていた中国政府が英国・香港政庁の意向を最終的に組み入れ、このプロジェクトを推進してきた事は、世界の動きについて実に見事な触感を中国政府側が持っている事を示して居る。 日本は既に置いてきぼりにあっている様な気がしてならない。 実際に成田の第一ターミナルの改善工事の遅々とした進行状況や、高額着陸料などをみていると、世界の航空会社がいずれ他国にハブを移す事は明白である。 空港税と云われる施設料も新香港空港は値下げして五十ドル、約七百五十円。 成田は二千四十円で関空は二千五百円以上とは異常?
入国審査についても窓口の拡充と自国民、外来者の区分を遂次変更するなど、審査官のスピードや審査態勢が改善され、行列が減っている。 それもその筈でなんと入国審査窓口は百二十八机装備された。 そのうえビザ免除滞在日数も日本人などには大幅に緩和している。 手荷物の戻ってくるターンテーブルはいまだに稼動が百パーセント完璧でないとのことである、時折預けた荷物の戻りが大幅に遅れる事があるらしいが、ひところよりは改善されている。 特に日本人の多くは香港行きは買い物なので、往時の手荷物は少なく機内持ち込みだけの旅客が多いのであまり被害が出て居ない、七十六列ある税関検査台もほとんど日本人はフリーパスで従来よりすんなりと到着ロビーに出られる。
まず驚くのはあの啓徳の喧騒はどうしたのだろうと戸惑う程、新空港のロビーは広く反対に出迎え客は少ない。 従来であれば市中から五分で空港に行けた啓徳とは異なり市内から空港までは距離もある。 当然運賃なども負担増となっている。 空港全体で一万二千五百の待ち合い用の椅子が用意されているというが、空港が広い為に、椅子だらけの印象はなく整然としている。 従前ロビーで悪評判だった両替商は新空港では複数社の営業となり手数料がほぼ同一になったが、依然として交換率は市中より悪いのは同じ。 勿論、世界に冠たる観光そしてビジネス都市の香港は、中国返還後も西側との円滑な取引、対応を最重要と考えており、九八年初頭からのエコノミーの悪化などから様々な施策変更を余儀なくされており、また中国政府としても安心出来ない状況下でありながら、空港公団をはじめ香港特別区政府のこの空港開業、高速道路、鉄道網の整備など一連のプロジェクトにかけた奮闘ぶりは見事で、やれば出来る事を実証してくれたし、その成果は単に空港の移転だけに伴わない多くの利便を地域社会に送り出すとともに、就業対策、アクセス改善など日本などが見習う必要がある諸策も見えている。 今回の香港の新空港の開港は新界地区のデベロップメントを主軸として、ランタオ島をふくむ周辺諸島の近代化など多岐に亙る膨大なものであることを再認識させられる。 硬直化している今日の日本には真似すら出来ない様な大胆な諸策は、すぐに日本を追い越して行くだろうし、やがては日本はアジアで孤立してしまうかもしれぬ。
では、今回の香港新空港プロジェクトに関連して誕生したものを、瞥見してみよう。 まず、空港とのアクセスである。 香港では市中にMTRと呼ばれる地下鉄があるのはご存じの通りであるが、空港の開業にあわせて二線の新規開業を行った。 まず香港島と空港を結ぶ高速地下鉄幹線でエアポートエキスプレス(APL)と呼ばれる。 約三十二キロのルートを中間二駅に停車して二十三分で走破する。 八分間隔で運転され、全客席にはTVモニターがつけられ、市内案内などを行っている。 すごいのはこの電車は空港の到着ロビーに乗り入れており税関口から五○米以内でホームに着き乗車可能で、世界広しといえども、階段などの段差なしで地上電車に乗れるのは、今のところ香港空港だけ。 とかく荷物が多い航空旅客にとって階段、エスカレーター皆無で乗り換えられるのは福音としかいいようがない。 税関検査台を抜けてロビーに出るとまず出会い頭にあるのがエアポートエキスプレスの切符自動販売機である。 このエアポートエキスプレスが空港駅を出て二分後にはもう一つの新線である東涌親と合流する。 この東涌(トンチュン)地区は空港関係者の住宅、事務所、空港関係施設などが点在する地区で地下鉄の東涌駅と空港間はシャトルバスで結ばれている。 またこの地区の北側には香港べースのキャセイ航空の本拠地施設が点在する。 二つの路線は途中駅の青衣の手前で青馬大橋と汲水門大橋を渡る、特に青馬大橋は全長千三百七十七米におよぶ吊り橋で、現在世界一。 桑港のゴールデンンゲート橋より約九十米長い。 日本の瀬戸大橋と同様に階下を鉄道とし、上階を自動車専用道路としているが、台風などの襲来でも交通確保の為に下階は縦割りに仕切られ、中央部分は鉄道、その脇を上下線の自動車専用道路、そして外周が保安通路としてカバーされている。 この為にエアポートエキスプレスはこの橋に近ずく前に地下に入り二つの大橋はトンネルの状態で通過するので橋を渡っていることがわからない。 青衣はランタオ島と九龍の間に位置する島で、漁業関係者などが住む静かな場所であったが、空港、大橋の出現で東西南北の要所となり、いまや高速道路が縦横に走る島になった。
この青衣大橋の特筆すべき点はなんと、片側四車線の自動車路が確保され、空港と市内間の高速道路も極一部を除いて往復八車線の幹線が標準整備されている点で、東名や名神以上の道路がいまやあの狭い香港に整備されている事を、日本人は知るべきで同時に日本の行政のおそまつさを再認識すべきではないか。 前述の高速道路網は空港の開業に合わせる様に新界や九龍北部などに整備された。 元朗、錦田、上水など香港でも田園地帯として手付かずであった場所もいまでは、市中からほとんどが半時間で結ばれるまでになっている。 そのうえこれらの高速道路のほとんどは英国植民時代の名残なのか料金を必要としない。 トンネルなどの有料区間の料金徴収についても、自動化が進められており料金場で停車する事なく、高速で通過出来るシステムが稼働している。 料金はあらかじめ登録された口座に請求される様になっている。 香港市民の足であるダブルデッカーバスが、高速道路網を疾走して路線バスとしてさらに市民に愛用される様になったのも、高速道路整備のお陰といえる。
勿論定められた範囲での開発であるが香港では空港鉄道についても、実に効率的な手段を講じてダブルトラックを実現させた。 香港では鉄道を一本化して運賃制度管理などを、地下鉄公司に空港線を含む市内路線すべてを移管、統括させた。 勿論九広鉄道は別途であるが。 そして特別料金付加鉄道として空港と香港島を結ぶ空港線は途中二駅のみに停車して、最速優先、航空機のビジネスクラス並の席配列の特別車両を使用する事とした。 料金は付帯料金込みで大人片道で空港・香港島間百ドル、空港・九龍までは九十ドルと高額設定になっている。 現在不況で利用客も少ないので開業記念と称して三割引きをしている。
これに比べて同じ線路を走る東涌線は東涌駅と青衣駅まではノンストップ、将来には二、三の駅が開設予定となっている。 青衣駅からは従前からの地下鉄線への乗り換えも可能で、ここから香港島駅までは直行では三駅を経由する。 車両は五扉の新造標準電車でステインレスの座席は今度は窪みが付いたので走りだす時にお尻がすべらない様改善されている。 運賃は東涌・香港島間で三十二ドルと三分の一以下ですむ。 二路線とも現在は八分程度の間隔で運行されているが、将来は三分間隔程度まで頻度が進むと予想して作られている。 そのために一複線を基準としながら全工程の内の数箇所でサブ的に複々線を採用している。 そのために同一線を走る二路線でありながら案内図面などすべての表示は二系統として別路線掲示されているので、分かりやすい。
エアポートエキスプレス旅客には、九龍駅または香港島駅から最寄のホテルへの送迎無料バスが運行されている。 十五分間隔でシャトルバスが数筒所のホテルを往復する。 またこの二つの駅では、出発時にはチェックインが出来る様になっていて、ホテルから送迎バスで駅に行けば、そこで乗り込む予定のフライトチェックインが出来てしまうので、荷物を引きずる必要はない。
その分、空港で最後の買い物をしてもらおうと、新空港ではスカイマートなる一大ショッピングセンターが開業していて、免税品からブランドもの、キャビアから寿司まで手中に出来る。 面積も半端ではなく三万平方メートルありレストランを含めて百四十三の店舗が空港内に軒を連ねる。 従来通りの空港バスや、ホテルリムジンなどはさらに路線を増やしてキメ細やかなサービスをしているが、市中までのタクシーは従来の十倍と考えた方がいい。 トンネルとか高速料金の通行料や、荷物の付加金などがメーター料金に追加されるので、よっぽど広東語に堪能でないとごまかされて居る金額が解らない。 相変わらす香港タクシーは都合が悪いと英語が判らない風に装うので、交渉に難航してしまうのは不変。 ただ日本と比較した場合は別で、空港・香港島まで三十五キロを高速道路料金を入れても三百五十から四百ドル、日本円で六千円。 どうも追加料金と称してとる金額は若干不当の様だが成田を例にとると距離的には丁度成田空港から幕張メッセ、高速料金を含めると一万三千円になるので改めて日本のタクシーは高いと思う。
人口七百万人の香港が旧空港の啓徳の九倍の面積を持ち、年間八千五百万人の処理能力を有する空港を持つに至った事は事実として傾聴に値する。 新空港の場所からの離着陸には、すべての便が香港の摩天楼上空を経由するが、従来の様なカーブも存在せず、安全な景色を味わえる。 キャセイ航空の技術陣のテクニカルは世界的にも上位とされ、海外諸国の航空機整備を引き受けるまでに成長しており、いまやアジア、いや世界有数の航空会社としても最右翼に位置する一社である。 世界の航空界は英語を国際間の基準語と定めており、香港はアジアでは少ない英語国家である。 航空機のぺイロードの拡大によりB747、AB340など一万数千キロを無着陸で飛行可能な現在、日本が東西のハブとして生き残るためには香港などの空港に対抗出来る諸策を早意に打ち出さないと、やがて成田や関空は日本とアジアハブを結ぶローカル空港に転落するだろう。 なにしろ日本はアジアのエセ紳士気取りだけの国際感覚や決断力はまるでない世界でも最低水準の国になりつつある。 手前勝手な権利だけを主張しても、他国や他民族は耳を貸さないで当然、責任の意識皆無で滑走路もろくに持たない空港に飛んで来いなどとは、恥ずかしい限りで誰も聞いてはくれぬ。 軽率な航空行政はますます日本を田舎のプレスリーにしてしまう。

(平成十年)


[Top Page][Index][Top][Contents]


もういくつ寝ると

紐育からの便が約一時間の延着で出発もそれなりに遅れるらしい。 既に成田空港は墨汁色の空で、星もでていない。 今日は霜月の最後、明日からは師走の誘導路を往来するジャンボジェットの衝突防止灯だけが、動き回る。 ファーストクラスラウンジには世界に旅立ついろいろの国の人々はそれぞれの思いで、出発便の案内を待っている。 セルフサービスのバーに足しげく通う人は、いかにもアメリカ人らしく飲みっぷりも大胆だ。 だれも見ていないCNNのニュースラインのアナウンサーは例によって早口言葉、でもニュース種は無限らしく、ヘッドラインは賑やかである。 香港の子供の名付け親になっているので、ひとあし早いクリスマスギフトを届ける空の旅だ。
もう一杯ビールでもと立ちかけた途端、香港行きの搭乗案内があり数名の待ち合い客が席を立った。 小生も後に続き夜間飛行の客となった。 幸いにも隣席は空席で香港までのフライトはゆっくり過ごせる様子でホッとする。 お喋り好きなアメリカのオバさんなどと同席になると、とてもゆっくりなどしておれぬ。 悪い習慣で未だに禁煙が出来ずスモーキング席を占拠するのが通常であるが、こんなオバさんが隣だと早くタバコをやめないといけないと自戒の念に浸ってしまう。 喫煙量だけではなくどうして灰を灰皿にキチンと始未出来ないのか理解に苦しむし、またちゃんと消さないので煙りがいぶる。 これは喫煙者にも大変に迷惑な事なのに、全然判ってくれない。 その上孫がどこに住んでいているとか、親の仕付けがどうとかまくし立てられても、こちらにはまったく関係がなく、迷惑が肥大するだけ。

一時間遅れで成田を出た香港行きは三宅島を過ぎるとシートベルトサインも消えた。 乗務員が中央のサービステーブルに花を飾りグラスを並べる。 ドンペリニョンをお代わりする頃には、食事のサービスとなるのが通例で、夕食は液体中心の小生にとってはちょっと重荷の時間になる。 香港までは約五時間のフライトだから三時間はゆっくり飲みたいのが本音の小生だから、ついつい食事はスケッチをすませるとお返しして主力はドンぺリさんになってしまう。 乗務員もそつがなく最後には瓶ごと隣席に置いてくれたりする。
シャンパンクーラーを軽くシートベルトで押さえて、平手神酒を気取るひとときこそ飲ん平馬鹿にとってファーストクラスフライトというもの。

香港の人々は宵っ張りで、十二時近い時間なのに、まだ各家とも煌々と明かりが灯っているアパート群をかすめる様に滑走路に向けてカーブが始まる。 考えてみれば屋根裏をジャンボジェットが三分間隔で飛び越されるのだから、寝てもいられまい。 テニスコートに主翼の端が引っ掛からないのが不思議な様な一瞬、機体は水平を取り戻しドドンと接地、『皆様当機はただ今香港啓徳空港に到着しました』と相成る。
この香港空港には、ファーストだろうが、エコノミーだろうが、出入国手統きにまったく差別がないと言ってよい。 ロンドンなどのファストーレンなど勿論ない。 従って搭乗機の扉が開くや脱兎のごとく入国審査場にいかないと延々と続く行列に加わる事になる。 すいているゲートは香港住民用で誰もいなくても融通性には疎い。

その上なぜこんなに時間がと思う位パスポートチェックに時間を掛ける。 でも隣の審査官とはそんな作業の間にも、無駄話をしている官吏がいたりする。
第一幕の入国審査の後は第二幕の手荷物受け取りであるが、ひとつの回転台に二〜三の便の荷物が乗っかって出てくるので、繁雑極まりなく時間がかかる。 航空会社にコネのある乗客などは別途に係員が荷物を運んできたりしているが、一般は唯々待つのみである。 優先タグを成田で付けるが、あまりこの空港では効果はない。 税関審査だけは日本人には寛大でほぼフリーパスで通過出来るのが利点といえば利点だ。
無愛想であまり英語など出来ないタクシーに淘られて九龍半島の先端、チム・シャ・ツイのホテルに着いたのは十二時も半分過ぎた頃であったが、ホテルの受付にはいまだに到着客が右往左往、あと七ヵ月で中国に返還される東洋の真珠と呼ばれる街に着いた。

一九九七年六月三十日、英国は九十九年の租借期限が終了し、香港島、周辺小島、九龍半島及び新界地区を中国政府に返還する。 当初の租借はビクトリアと呼称した香港島および周辺小島および九龍半島のボーダーストリートまでの地域であったが、後年人口の増加などと啓徳空港などの開港により現在の地区までの租借となった。 数年前に破壊された九龍城と呼ばれた貧民窟ビルは、中国からの逃亡者の隠れ家などにもなったが、同ビルは当初旧中国側に位置していた関係もあって奇妙な治外法権が存在していたとも言われ、香港政府も安易には破壊出来なかった事情がある。
この英国植民時代の終焉を迎え、現在多くの変化が香港に起こっている。 過日問題となった尖閣列島問題も香港住民の一部が、中国返還の忠誠を見せかける為のプロパガンダであったとも言われている。 現実に二十年前に同様な問題が起きた時は、香港住民は日本に味方した事実がある。 つまり香港の市民は天安門事件の際に示した中国への抗議の動きは今や得策でないと理解し転換を図っていると思われる。

アジアそして世界の観光拠点として、香港は急速な発展を遂げている。 事業税なども他国に比べて大幅に低率で推移しており、世界からの投資が盛んである。 しかし六月三十日に向けて撤退に踏み切る企業も多く、今後異様な展開も考えられる。 あれほどホテル不足といわれながら中心部の有名ホテル『ヒルトン』が営業をやめた。 しかしシャングリラなどアジア系のホテルは拡大しており、日本のニッコーも現在客室の半分を閉鎖して改築を進めるなど逆方向を目指している。
十一月の中旬から二月の旧正月まで、特にチム・シャ・ツイ・イーストと呼ばれる新開発地域ではクリスマス及び旧正月を祝う電飾で賑わう。 ところが今年はこれにも異変がおきており、英国系のビルはシンプルなものか、電飾皆無のものまで出た。 逆に中国系のビルの飾り付けは豪華になっている。
香港のショッピングは従来小さな店を冷やかして、値切りながら買い物を楽しんだものだが最近は大資本が大型店を開設し、中小企業が消滅しつつある。 レコードやCDなどミュージック商品はコピー物もあったが、小さな店が多かった。 ところが最近は外資系列の大型店が事業を延ばし、中小店舗は店をたたんでしまった例が多い。
三越、伊勢丹など日本のデパートの支店も店舗を閉めた。 家賃の高騰はとても払えるものではない程、急激に上昇している。 ホテルを閉鎖して事務所ビルに改装しているものもあり、このほうが効率がよいとされる。 八坪程度の雑居オフィスで平均家賃が月十五万円もするそうで、東京より高い。

公共料金を年三回上げたのは今までなかった、香港に長年出掛けているが、地下鉄の運賃など大幅に値上げされた。 香港駅から九龍半島にわたる一駅の利用が今では八ドル五十セントもする。 春先は六ドルだった。 スターフェリーも一ドル二十セントからいっきに二ドルになるなど現地人もびっくりである。 タバコ一箱がいまや二十八ドル、ちなみに日本では同一のものが十六ドル五十セントで買える。
香港といえば飲茶が有名で、朝の五時から営業する店があるほど、現地の人々に愛されている。 ひとり三十ドルもあれば、腹一杯になったが、先日九龍のある店で大人二人、子供二人で、お茶と点心で三百八十ドル請求された。 現地の人と行ったのだからボラれた訳ではなく、これ程物価が上がっているのには、驚かされた。

香港島の中心、中環地区にそびえる中国銀行は日本の熊谷組が施工したビルだが周囲を威圧する巨大建造物である。 従来香港銀行券(通貨)は英国系の二銀行が発行していたが二年前からは中国銀行香港支店も発行を始め、現在では相当の比率を持つ様になった。 既に英国系の二銀行では銀行券の発行を手控えている様子で、六月三十日までには、さらに中国銀行の紙幣が増える模様。 勿論兌換券ではないので、中国返還後も英国系紙幣は流通するのであるが、中国としては、基本的にに六月三十日をメドに多岐の変更完了を望んでいる感じで逆に英国の考え方はその日以後変換していくとの基本的概念の違いが見え隠れしている。

一つの例であるが英国系航空会社キャセイ・パシフィックは返還後も英国企業でありたいと願ったが、最終的に中国と英国の両資本の会社として存続する事になった。 勿論これにより香港新空港開港後もホームベースとしての位置は確保されたが、もし英国系を主張すれば当然飛行回数制限など、中国政府からのパンチを受ける事になったと推察する。
日本のワールド企業のヤオハンも現在中国との接近を図りながら将来を模索している。
香港の国会にあたる行政院では議員の多くを親中派に置き換えが進んでいると聞く。 我々旅行客が垣間見る表の香港はいつも喧騒の中で動いているが、裏面の動きの方が相当に先行している様子が判りかけた。

香港のパブ・マッドドッグの土産にラグビーシャツがある。 昨年までは英国のライオンの紋章などがデザインされたもので、観光客がよく購入していた。 今回気が付いたがこのラグビーシャツのデザインが五星紅旗に変わっており、香港商人の目ざとさを知った。 一九九七を立派に営業に生かしている。

電脳といえばコンピューター、香港では携帯電話と電脳は今一番の人気で、ソフト類の海賊版も後をたたない。 またレーザーディスクは置き場所を取り、保管にも場所はいるので、普及しているのはビデオCD、海賊版なら二〜三十ドルで米国映画、中文字幕が購入出来る。
この手のソフトは、映画だけでなく、軟らか物と云われるポルノ系列ものも多い。 香港は公式には日本と同様にヘアヌードが限度なのが、実際には相当ワイセツな物まで黙認されていた。 ワンチャイと呼ばれる地区に六階までを使用した電脳市場があり、一○○店以上が集結している場所がある。 ペントハウスやプレイボーイの商標のビデオCDがあふれていて、現地の人は米国直輪入のポルノコピー版を入手していた。 ところが最近警察などの臨検がきびしくなり、これらの店は次々に閉鎖を余儀なくされている。 一説によるとこの取り締まりは中国政府に顔色を窺う香港政庁の姿勢のひとつとも言われている。 一方人工衛星を利用した電視多チャンネルテレビの基地が香港にあり、こちらの方はポルノチャンネルを含めて有料放送が盛んで近隣諸国でも加入出来る。 これについては特に取り締まりは行われていない。 海外からの外貸収入は香港そして将来の中国の資金源となるからだ。

何かにつけて中国政府と対立をしている最後の総督パッテン氏の閣僚として薫氏がいる。 大手海運業の総師で中国よりと言われる。 江主席との関係も深く、総督としては中国政府への意向をまず、薫氏に聞き、彼は新華社香港支社長に伺いをたてていると言われる。 新華社は中国政府お抱えの通信社であるが、裏面は中国政府の代弁者でもあり、その権力は偉大だ。 当然支社長には要人が配置されているのが普通で、すでに薫氏はパッテンにかわり初代の行政長官に内定している。 (一九九六年十二月十一日、正式に任命された)
パッテン総督は薫氏を中国政府との円滑化を図る意味で起用していたのであるが、実際中国政府もパッテン総督の動きを知る方策として薫氏を利用したとみて間違えは無さそうである。

蟻の隙間もない風景が拡がる香港島、いくたびにビルが増えて行く。 数十万ともいわれるフィリピンメイド、急上昇している物価の中でこの人々を中国返還後も民衆は雇用継続出来るのだろうか。 日曜日になると香港島の中心の街路はすべてこの人々で理め尽くされる。
薫氏の起用は、返還後の香港の安定が最優先とされているが、議会をはじめ立法、行政のすべては中国政府が握る中で二つの中国は円滑に行くのだろうか。
あきらめと期待が交錯する一九九七ホンコン、香港領旗ユニオンジャックから五星紅旗中国国旗にかわる瞬間を世界の人々が注目しており、既に二倍の料金で返還日前後のホテルの予約は満杯との事。 さすが香港商法はあなどれない。 名付け親になっている子供たちも将来を考え日本同様塾通いをさせているが、親は物価や香港経済の安定には不安を持っている。 『利是』と呼ばれる中国の風習のお年玉を託してきたが、香港の現状を考え、チョッピリだが増額せざるを得なかった。 もうすぐ香港が変わる。

(平成十年)


[Top Page][Index][Top][Contents]


ユーロは果たして欧州貨幣になり得るのか

一九九九年一月一日から欧州のEU加盟国のうち十一ヵ国が幻の通貨であるユーロを承認し、加盟手続きを行った。 加盟した国々はベルギー、ドイツ、スペイン、フランス、アイルランド、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、オーストリア、ポルトガルそしてフィンランドである。 そして当初の加盟予定国であった英国、ギリシャ、デンマーク、スエーデン、ノルウェーなどは加盟を見送っている。 さらに欧州通貨の中で最も安定し、強い存在であるスイスは加盟の意志も示していない。 この様に通貨が一本化出来ない理由にはいろいろな原因があるが、その中でも一番の問題は強い通貨と弱い通貨があること、農業主体国と酪農主体国の違いも大きな要因と云われている。 一九九九年の当初から二○○一年の十二月末日までは、各国それぞれの通貨が主体に使用されるが二○○二年からはユーロ紙幣と各国通貨が併用となり、同年の七月からはユーロ圏すべてでは同一通貨であるユーロに統一される。

当該国通貨とユーロとの換算レートは一九九八年十二月三十一日のレートを基準として固定処置が行われた。 これは一九九九年一月一日から二○○二年までの通貨相場を設定する指針として固定し、最終的に基軸となる円対ユーロ、ドル対ユーロの動きを表記させる意味を持って定めたもので、二○○二年までの間には大巾な変動などが生じた場合には変更も検討される事になろう。 はたして一九九九年三月にはユーゴに対してNATOは戦時体制をとる処置に出て、不本意のままに参戦を余儀なくされたEU加盟国も出て、通貨の価値変動が大巾になってきている。 今回のユーロ通貨はフランスとドイツが主導権を握っているといって過言ではない。 ドイツは特に顕著でいずれはユーロ通貨管理国をめざしている。 ところが今回のNATO参戦で第二次世界大戦敗北後、初めての国外への軍事行動に踏み切るなど、同国通貨に不安要因を作る結果となり、今後の推移が懸念されている。

ユーロと呼ぶ通貨単位は確定したが、まだ紙幣もコインも存在しない、二○○二年の七月の通貨流通開始までに百三十憶枚の紙幣、五百六十憶枚のコインを必要とするといわれる。 勿論この数字は現在の加盟国十一ヵ国の見積使用量であり、加盟が増えればさらに造幣額が増える。 通貨の製造は既にデザインも決まりフル稼働で製造が開始されている。 ドイツ造幣局では現在二十四時間態勢でコインの生産が行われており、スペインの造幣局では紙幣が作られている。 複数国が使用する国際通貨でもあるユーロはもし偽造通貨が流通した場合、未曾有の被害が見込まれる。 そのためには種々の特殊細工を施したデザインは勿論造幣技術が優れているドイツ・スペインなどが選ばれ生産を開始したのであるが、問題はそのコスト、ドイツに比べれば初年度ではスペインでは約二分の一で出来あがる。 ドイツのユーゴ戦参戦に起因する通貨不安はユーロ通貨の造幣にも影響を与え兼ねないのである。 欧州では特にアフリカや中東の小国のために通貨の造幣を引き受ける特殊会社が存在し、そのひとつであるドイツ・ミュンヘンの業者はユーロ通貨の製造を引き受けていまやゴールドラッシュの様な勢いである。 政府の造幣局より生産コストも安いので、相当量のユーロ通貨の造幣を引き受けている様子である。
その結果、アフリカの一部の国で本年後半には交換通貨が不足して、流通にも外貨を代用せざるをえない小国が今年から来年にかけて生まれるとの事。 それほどこのユーロの誕生は多くの通貨が必要となり、また旧各国の紙幣の処分もいずれ大問題となる。 偽造を防止する手段として紙幣には通常許可されないインクなども使用されており、大量の紙幣の焼却などにあたっては、化学的な薬害も生じる危険も予想される。
一九九九年に始まった新通貨であるユーロは、当面、日米欧の一部銀行ではトラベラーチェックを発行する事になったが、それも二、三のユニットチェックのみで百と五十ユーロが主流、そのうえ外国為替取扱店舗でも販売している銀行の本支店はまだわずかで、日本では事前予約を必要とする銀行もある。 では一九九九年、とりあえずなにから始めるのかというと、各国銀行、商店などでは本年からすべての価格表示について自国通貨価格とユーロ概算額の併記表示をすることになった。 いわゆる欧州の単価の目安となる指針として利用される。

例えばフランス製造のミネラルウォーターの価格をとれば、フランスでは仏通貨、ドイツでは独通貨で表示されるが同時にユーロでも表記されるので、その価格に差額があれば、ある意味で国別の物価実勢指数を知る事が出来る。 つまり、数点の物件について価格を比較することで、どちらの国の物価指数が低いか判別の基準の参考に出来よう。
日本では前述通り一九九九年当初から数社の銀行でトラベラーチェックの発行に踏み切ったが、引き受ける側の欧州の店舗などでは、一、二割の割合でしか引き受けをしてくれない。 勿論これも空港の免税店や非課税売店などが主な取扱店であり、また引き受けてくれても、百ユーロ、五十ユーロの二種類程度でそれ以外の単位のチェックは拒絶されることが多いといわれる。 それに釣銭などは全て使用した空港の国の通貨や、手持ちがあれば日本円で精算してくれる。 滞在する国でなく単に乗り継ぎ空港などでユーロを使い釣銭をその国の通貨で受け取っても目的国の通貨ではないので使用出来るのは結局ユニセフヘの寄付しか使い道がなかったりするので注意が必要。 二年後には自国通貨になるというのに欧州では未だユーロは将来の自国通貨として認知すらされていない事が多いのに驚くのは日本人的考え方で欧州人は気にもかけないのが普通。

当面、ユーロでは紙幣を最初に導入を図りコインを流通の段階にまで至るには二○○二年以後だという。 平均十七パーセント程度を付加する欧州の消費税の実態を考えても、十分なコインが確保されない限り、混乱以外の何もでもない。 その上欧州型消費税は打ち内税方式、コイン不足ではまず考えるのは四捨五入の方式での便乗値上げ。 その上日本人が欧米を旅していつも経験するのが店員の釣銭間違えの多さ、多くの日本人が経験しているショッピングの時の悪夢の様な経験、それも日本では小学生でもこんな間違えをしないと思われる様な事を平然とドジるので、それが複数通貨での勘定となれば、まずほとんど被害に出くわすと思われるし釣銭パニックが予想出来る。
例外は二○年前のソビエト・モスクワ・シェレメーチボ第二空港の免税店にいたオバサン、当時の東欧やキューバまで通常西側で使わない通貨まで熟知していて、まったく判らない言葉を乱発しながら呉れる釣銭の正確だった事、あんなオバサンをヨーロッパに輪出し、ユーロ担当に採用すれば今のソビエトはもっと裕福になるのにと、変な事を思い出す。
それは兎に角現実に二○○二年の新通貨使用開始時まではユーロ通貨はサブ通貨であり国別、銀行別で両替や交換の手数料がさまざまで国によっては相当額の手数料を請求されるおそれがある。 レートは固定されたが手数料は依然全面通貨変更までは各国の設定がベース。 本来ユーロ通貨の誕生の最大の理由は各国間の交流簡素化と通貨交換手数料の削滅が最大の目的であったが、これから約一年半にわたる経過期間は今まで以上の手数料を支払わされる結果となると見てよい。 なぜならこれはユーロ通貨自体がないのだからそれぞれの国の通貨がそれを代用する事にもなるが、空港などでは自国通貨が不足した場合その国以外の通貨による支払いが生じても文句も言えず、釣銭を受け取らざるを得ない事も考えておかねばならぬ。 つまり二○○二年七月には欧州が一つの通貨になるのではなく、三分の二程度に通貨数が減る程度の理解力の方が混乱しないで済む。
たとえば英国、スイスの両基軸通貨国ではユーロには加盟しないので、すべてのユーロ通貨は依然としてこれらの国では交換が必要となる、この二国は通貨の両替手数料が昔から高い事で有名で米国ドルなどに比べるとコミッションが大幅である。 つまりユーロは彼らからすればフランス、ドイツ二大農業国のための通貨の感じが拭えないのである。 また二○○二年末までは、商店などではユーロを引き受ける義務はなく受け取り拒絶も出来る。 これ実は大変に重要な事で未だにクレジットカード文化に疎い、現金主義の日本人や英国の上流社会の連中にとっては、時によりパリのカフェでは夕食も出来なくなってしまう。 つまりカフェテラスではフラン通貨だけでも商売には影響を受けないし、ユーロで支払われても、チップのあんばいもわからないのではギャルソンは相手にしてくれないから。
クレジットカード支払いではユーロでも、使用国の通貨でもどちらでも支払いが出来るが、ほとんどのカードでは普通その国の通貨単位で記載するだろう。 日本での支払いの換算は当該国のその日の決済レートで計算される。 直接ユーロを日本円に換算するのではなく、フランスであればその国の銀行やクレジットカード会社は一度ユーロを自国通貨に換算し、さらに日本円への換算が行われるのですべて二回の換算で割高、ユーロでの支払いは損となる。
現在日本人は海外に口座を持つことが出来る様になっており、自由に欧州の銀行に口座を設置出来るが二○○二年までは当該国通貨または米国ドルがほとんど。 例えばオランダで口座を開設した場合、現在はオランダギルダーでの口座開設となるが、二○○二年七月一日からは、ユーロ加盟国に限りこれが自動的にユーロ通貨口座に切り替わる。 ただし約定をしておけば旧通貨単位での口座は存続可能らしいが明白ではない。 しかし英国で口座を開設しても、ユーロには未加盟なので英国ポンドとしての口座が二○○二年以降も存続する事になりユーロ通貨には移行しない。
ではなぜ英国やスイスそして北欧などが参加しないのか、これについては国間によって大きな違いがある。 まずスイスであるが世界通貨の小鬼といわれる同国の金銭感覚、銀行などの金融機関の態勢、国勢の現状、立法及び行政の国民全ての参政権などの違いなど、いちがいに説明が出来ない程複雑な考え方をみせるのがスイスで、未だに金銭的には欧州内でありながら欧州に属さないのがスイス理念といえる。 ヒットラーの財産、パーレビーの資産、最近ではスハルトの蓄財など、スイス通貨の特異性はいまでも変わっていない。 世界の各国の国税庁が一番難儀する国でもある。 勿論観光王国であるスイスは自国にプラスとなる欧州連合鉄道(ユーレイル)などには率先して加盟しているが通貨となると別の意味からの信用度が抜群であるだけでなく、最終的に米国ドルが拒否されてもスイス通貨は引き受ける姿勢を見せる世界の国々が多い現状をみても、他国通貨と協調を図る必要などは皆無で価値レベルも平均して他国を圧倒している。 このためだけではなくとも、スイスにとって、代替通貨や寄り合い通貨などは兌換にも程遠く論外にほかならない。 つぎに英国は気位などが依然として友好や協調に優先するお国柄で島国根性は日本とよい勝負で、昔からコンチネント(大陸諸国)とは一線を画す事が大義名分として存在する。 英国病と呼ばれた一九七○年代の弱体王国は今や鳴りをひそめ、サッチャー首相、そしてその後の彼女の院政によって長期政権となったメジャー首相の政治手腕により大英帝国時代を彷彿とするまでに経済の復興を図った英国は、いまや自国通貨を欧州通貨と置き換えたい程である。
第二次大戦後、EECにはじまった欧州のボーダーレスの流れにも依然として消極的で、旅券の検査などもいまだに独自の物差しを使用する程であり、いまやトンネルで結ばれる様になった英仏海峡であるが、英国国鉄は依然として欧州の鉄道パスには加盟せず独自のブリットパスを使用し出入国管理も独自の基準で行っているEUの中の異端児。
北欧の未参加についてはおそらく各国自身が小国であり、王制の国が多い。 また人口もそれほど多くはなく通貨の統一化により自国通貨が事実上消滅する様な印象を持つ統一通貨への移行は王族のシルエットが残る紙幣を愛して来た国民感情が許さないなにかを秘めている様な気がする。 共和国と立憲君主国の違いが見えかくれする。 最近戦禍にまみえたユーゴやセビリア、コソボ、そして東欧を挟んでの欧州の最南端ギリシャは本来のEU地区とは離別しており、また国民の交流なども西欧とは全く異なる。 生活文化、価値観、物価指数などをとってもユーロへの併合には問題がありそうで、この度の決定は当然と思われる。

ユーロは英語のEの筆記体をデザインしたもので表記される。 最新の情報ではやっと昨今欧州の主要空港の両替所でも、ゴタゴタがなくトラベラーチェックの交換が出来る様になったが、実際に交換する時は、当分若干のいやな思いをする事になりそう。 なにしろ現金でも米二○ドル、英二○ポンド以上の紙幣となると、窓口の店員はスカシや特殊印刷リボンを必ず透かして本物や否やチェックする。 これに以外と時間がかかる。 新ユーロ通貨のトラベラーズチェックのデザインは当然だが周知していないので、おそらく数回にわたり交換時にはチェックの憂き目にあおう。 間違っても立ち寄り空港などでユーロ通貨を英国でフランに替えたり、パリでポンドに替えない様にしないと、時間がかかるだけではなく、ユーロから欲しい通貨への換金までに二〜三度に重複して手数料を請求される事は覚悟しておいた方がいい。 ユーロと目的国の通貨レートはリンクされていても、途中の第三国通貨が立ち入ればすべて『ご破算にねがいましては........』となるからだ。

ユーロの本拠地はベルギーのブルッセルに置かれた。 ECに始まった欧州統合のホームベースであるベルギーはベネルックス三国の中心だけではなくいわば欧州の臍、国自体には特別なものはないがなんとなく本拠地に出来る無難な場所である。 おそらく他のドイツやフランスに本拠地を置けば、この通貨同盟は長続きする筈がないと、欧州主要国の首脳全員が思っていると想像出来る。 つまり強国がなにかをすれば必ず、コジレルのが過去数百年の欧州であって、根底のどこかに単一通貨の成功など信じていない面すら見え隠れするのが現状でもある。 異文化こそ文化などという文化相がいる欧州故か。 でもドイツはいまでも欧州通貨枢機国をめざしているらしい。 欧州当初の模索は米国、英国、日本通貨などに並ぶ基軸通貨を保有する事であり、日米も欧州統合通貨の誕生は協調だけではなく、世界への通貨安定供給にも利便があり喜ばしい事として歓迎した。 しかし現在の様に英国、スイスなどが入らない通貨では、期待した基軸通貨には若干不本意なものである事は間違いなく、ユーロ通貨の流通の速度によっては、同盟国の間や自体からも不満や拒絶反応が出てきそうな気がしてならない。
今回の統一通貨第一弾では、片肺飛行的なスタートとなった。 紙幣やコイン一枚ないままでのスタートライン、当初の予定参加国の減少、依然として存在し脅威となっている各国通貨間のギャップ、発行紙幣、基金の兌換能力への懸念など問題は山積とも言える。
通貨とはかかわりはないが、欧州ではEU加盟国間などの免税が事実上なくなった。 この動きは既に実施されているが、欧州内往来では欧州居住者には免税が適用されなくなった。 日本人などの欧州外の住民に限り免税の恩恵を受けられる。 問題は英国で買った商品をフランス経由で持ち帰る場合、英国税関では東京までの通し切符所持者以外は免税の証明をしないケースが起きる。 パリのフランス税関では東京行きの乗客の免税品は証明はするが、払い戻し窓口は英国製品の証明は受け付けてくれない。 証明を受けても英国に書類を送り返す手続きをしないと税金は戻らない。 近年はクレジットカードに払い戻す方法と空港で現金で返却してくれるケースが多いが、前述の例ではパリで現金では受け取れない。 でもガッカリする事はない。 欧米でのタックスフリーの返却窓口が何と今や成田空港に開設され日本円で戻ってくる。 ダンヒルの買い物の税金が成田で戻る様になったがこれはユーロとはまったく無関係の恩恵。

(平成十年)


[Top Page][Index][Top][Contents]


十一面観世音風EUコインの登場

日本における通貨の常識として一単位のコインのデザインは一種類に限定されるのが普通で年号の変化以外異なるデザインやサイズが通常使用される裏は稀である。 勿論記念コインなど特別な貨幣の発行にあたっては、一時的なもので且つ収集を目的とするべく作成されたものが多く、一般に流通することは少ない。 特にこの国では自動販売機が異常な程に発展をとげており、下手な店員以上に挨拶までこなす販売機が存在する。 ところがこれらの機械でも、時折コイン通貨を判別出来ず他国の価値の低い通貨による悪用が出たりする。
欧米の自動販売機はほとんど釣銭が出ないし、使用出来るコインの種類も限定されており、紙幣をいれてコインで釣銭が出る様な頭脳明晰な機械はほとんど存在しない。 もしあればその機械は日本製と思ってよい。 したがって各国の財務当局も現在まで自動販売機を考慮してコイン通貨のデザインなどを行う例はないので、時によりメダルの様な大型コインや同一単価のコインでサイズが異なるものも発行される。 しかし日本では自動販売機も流通上の要点のひとつとされ、通貨の発行にあたっては、サイズ、厚み、表面の凹凸が制限されている。

米国を例にみると、ほとんど流通していないが一ドルコインは大小二種類が現在存在している。 不思議に思うがネバダ州ラスベガスでは全米で使われる一ドルコインの五○パーセント以上が流通、使用されていると云う。 大型はスロットルマシーンなどには使えない大きいコインで米国の建国二百年記念として発行され、いまでも毎年一定数がデンバーなどの連邦政府造幣局で作られている。 小型の一ドルコインは一部の自動販売機やラスベガスの賭博機械で使用出来る。 このコインは他州でも流通していて、ハワイ州ホノルルの銀行などでも観光客用に用意されていて申し出れば交換してくれる。 価値あるメイド イン USAが少ない昨今なので、幾つか交換してもらって日本に持ち帰ると以外と喜ばれる土産にもなる。 あとは有名なケネディコインの名前で知られる五○セントコイン、この通貨の発行分の六○パーセント以上が海外に散っているといわれ、世界中の人々が記念通貨、土産通貨として保有していると云われる。 通貨として使用されるのではなくペンダントやブローチに加工されてコインショップなどで販売されている例も多い。 またコインショップでは米国で発行された記念貨幣のペンダントケースを昔から販売していて、若者がアクセサリーとして保持している。

さて、現在欧州では二○○一年からのユーロ通貨の使用開始に備えてフル稼働で新貨幣が作られている。 当然の事ながら紙幣とコインが発行されるが、驚くべきことはコインのデザインである。 発行されるコインの片面はすべて同一デザインであるが、なんと他面側は参加十一ヵ国毎にデザインを独自に決めたものになる。 EU当初の予定では十五ヶ国がこの新統一通貨の使用国になるはずであったが、スエーデン、デンマーク、英国、そしてギリシャが二○○二年のスタートには加わらない。 そしてノルウェーとスイスは参加の表明すらしていないので、EUの新通貨使用国は二○○二年の一月一日の段階では十一ヶ国となる。 つまり同一単位通貨のコインが使用開始時には金額毎に十一種類づつ発行されることになる。 日本には十一面の顔を持つ観世音菩薩があるがECの通貨の統一と通貨単位の足並みを揃え、国境を取り除くはずのEUの通貨のデザインは実際には十一面を持つコインなどちぐはぐなスタートをさらけだす結果となっている。

紙幣は裏表同一のデザインらしいが、コインはすべて違う。 おそらくこの考えかたは従来同様に輪送や通貨管理上から一国を一地域と考えてこの線引きを越えたコインの交換を制約するために考えた事だろうが、車社会の現在ではコインの重量や輪送上の制約などほとんど考えられず、予測であるが五年後に至ってはコイン通貨の流通の流れも把握出来なくなるだろう。 また、十一種類の異なる通貨を判別、解読する自動販売機は相当のコスト高になると思われるし、欧米の現状から自動販売機が素直にこれらのコインを受け入れるか疑問。 ほとんど作動不能になるのではと心配になる。 この記事をまとめている最中に日本でも二○○○円日銀券の発行が発表され、同日自動販売機メーカーの株が四○円も上昇したが、メーカーにしてみれば一枚の新券に対して世界の類似紙幣を撥ね除ける技術の開発が必要になるのであって、単に新券の判別だけではない。 現実に鉄道などの自動販売機でも釣銭が出たり、券種により磁気付き用紙と普通軟券と区分け発行したりする技術は数ヵ国しかない。

こんな状況の中でもフランスでは特に新通貨ユーロのキャンペーンが盛んで積極的になって来ている。 各銀行などでは複数のパンフレットを用意して新通貨、貨幣のPRに余念がない。 特に傑作なものは子供向けの広報パンフレットで基礎知識を知る為にも大人まで充分参考になる内容になっている。
パリ・ナショナル銀行が発行しているミッキージャーナル特別号『ユーロは簡単』などは漫画で変更の時期、加盟国、通貨のデザインなどがわかりやすく掲載されている。 その上、びっくりものは英語ぎらいのフランスにあって英語を合む外国語版まで用意している。
パリ郊外にあるディズニーランドパリでは、今夏、既に国内のすべての売店などのレジスターはフランス通貨とユーロ換金額が併記したレシートが発行されている。 勿論本年使用を開始したトラベラーズチェックなども受付てくれる、前述のパリ・ナショナル銀行のミッキージャーナル誌もテーマパークの各ホテルや、受付などに用意されていて誰でも入手出来る。 逆にアムステルダムの商店街ではユーロの計算が出来ないと、最初からユーロトラベラーズチェックは相手にされなかった。 二○○二年の開始時には加盟はしないが英国でも、ユーロスターの切符売り場など大陸と隣接する企業などは自国通貨とともにユーロ通貨での併記を開始した。
新貨幣を紹介するパンフレットも各国で発行されていて、二○○二年からの使用開始の案内に余念がないが、前述の通りすべて国毎にデザインが違うコインなので、各国単位でのパンフレットしかない。 つまり一国単位の新通貨パンフレットをそれぞれの国で配布していて、コインは十一面であることは、広報されていない。
いまでも、英国でスコットランドの通貨をロンドンで使おうと思っても、イングランドでは相手にされない。 逆にエジンバラでイングランド銀行発行の紙幣で支払いをしても、問題は起きない。 スコットランド紙幣で支払ってイングランド通貨でお釣りをくれるのは、いまは民間になったがブリットレール(英国鉄道網)と英国内の空港売店などほとんど限られている。
この風習を考えると二○○二年以後、フランスのコインをドイツのミュンヘンで支払おうとすると、コインのデザインが違うので、受け取り拒否をされるのではないかと今から心配。 なんのための統一ユーロなのか、全然判らない。 つまり通貨単位は国際化したが、なんとなくしょうがないから付き合っているといった風情。

ユーロは一九九八年の十二月末の各国の確定通貨交換レートで加盟国十一国の対ユーロレートが決められた。 この決定によりユーロの対ドル、対ポンド、対円などユーロ以外との換算レートが一月はじめから設定された。 一月七日のレートを参考にすると当日一ユーロドルは米国では一.一四五ドルとなり、英国ポンドでは六六.四九ペンスに換算された。 ちなみに日本円では一三二円六五銭となった。
ところが十月に入った段階では対米国ドルは一.○五三八ドル、英国ポンドは六○.九八ペンスとほぼ十パーセント下落になっている。 日本円に対しては一一六.六○円と十二パーセントを越える下落となり、今後日本経済の回復が順調にすすめば年末には十五パーセント以上の減額となるだろう。
ユーロ通貨は先に述べた通り、その指導権はフランス、ドイツがほぼ枢機国として機能していることは周知の事実である。 ところが早春からはじまったユーゴへのNATOの進攻は米英とともに仏独両国もこの戦争に参画したために世界の為替の世界では厳しい評価を受ける事となった。 特にドイツは第二次世界大戦での敗戦国であり、参戦については西側からも賛否両論が交錯した。 そのうえ東独との合併後の処理が思わしくなく、失業率の改善もなされないままに、コール政権の終焉があり経済基盤がもろくなっていた矢先の参戦であった。 その結果としてユーゴの戦渦が去った後もドイツマルクの相場はほどんど改善がないままに今日を迎えており、結果的にはユーロドルの足を引っ張っている。
おなじユーロ加盟国でありながらスペインやスエーデンなどは下落巾が小さい事を考えると、今後残された一年二ヵ月の間に改善がどの様に行われるのか、また国内改善策に具体的な施策があるのか懸念される。
二次的に考えられている追加加盟国として、英国、ノルウェーなど数ヶ国があるが、現状を見る限り安易な新加盟は望めない。 英国病といわれた倦怠はいまや忘れ去られ、世界通貨の雄としてポンドの地位もゆるぎない今日、特にイギリスでは労働党が政権を維持する限りブレア首相が加盟に対してゴーサインを出すとは思えない。 ユーロの積極支持者であったサッチャー女史と、その後継者であったメージャーが後退し、保守党の時代が終わり、その上サッチャー女史の引退後の院政スキャンダルなどが発覚した現況を考えると、当面ブレアの時代が続くものと思われるからだ。

あってはならない事であるが、欧州の人々が云う『レストオブワールド』の国々が現在の経済不安を打破し、回復基調が出て来れば、間違いなくユーロドルは米国ドルと肩を並べるまで下落してしまうだろうし、そうなるとイタリアなど景気回復基調にある現在のEU加盟国の内数ヵ国はこの連盟を離脱する危険をはらんでいる。 新通貨、EUユーロは欧州の通貨一元化とドルに対抗出来る強度を兼ね備えた通貨になることを目標にここまでこぎつけて来たが、リーダーであるはずだったポンドがいち抜けたの状態では、とても強い通貨の出現はおぼつかない。 二○○二の一月一日までは加盟国それぞれが自国通貨を流通させており、いまから離脱しても問題は少ない。 コイン程度であれば片面自国デザイン通貨は各国が引き取り独自に流通させるか、または破棄してしまえば、問題は消滅する。 邪推めくがそんな事も配慮して現在コインが作られているとは思いたくないが。 いずれにせよ通貨価値が異なる十一ヶ国がひとつの通貨単位にするのは大変なことである。

一九九九年十二月三日、予想した通りユーロは米国一ドルを割り込む事態を迎えた。 欧州の投機筋も当然の事ながら日米通貨への関心を強め、この流れは当面変わりそうもない展開となっている。

(平成十年)


[Top Page][Index][Top][Contents]


何日北京再来

黄土に染まる北京首都国際空港は昨年新ターミナルがオープンして国際線と国内線を分離した。 台湾路線と香港路線は国際線にそのまま残しているのがご愛嬌、つまり一国二制度がここにも生きている。 待合室などでは普通でさえ猥雑的な騒音が十二憶といわれる雑多な民族の国ゆえ倍増して聞こえる。 長い歩く歩道を過ぎると、入国審査、ほとんどが査証を事前に受けているので、質問もされずパス、勿論なにか言われても北京語が判らないので答え様もない。 香港などからの来訪者も同様で広東語とは全く異なる言語なので、話が出来ない。 つまり同じ中国国籍でも通訳を介さないと言葉が通じないのである。 預けていた荷物も回転台に順調に戻って北京でも赤/緑の自己申告式通路を通って税関も終了。 なぜか日本の成田の様にすぐには荷物が戻ってこないので回転台に現れる間を利用して最寄りに設置された中国銀行自動外貨交換機のお世話になって、中国元への交換もすぐに出来る。(平成十二年春現在)
上海などの空港も新空港が整備、開業して中国の空港も日本以上に整備が進んでいるらしく中国人自身が近代化に驚いている。
評判の悪い空港タクシーも新ターミナルでは若干管理がうるさい為かすんなりと乗車出来た。 昨年までは白タクが横行して手に負えなかったが今年は若干改良された様子。 でも下車する時に案の定二割ほどふっかけられたが、無視して突っぱねた。
タクシーのドライバーはほとんどが無愛想で、その上お互いに言葉に問題があるので、無言のドライブが普通。 空港を出ると唯広い野原の様な郊外をひた走る。 時折白樺などが混じる林を横切るが、未だ若葉もない木立は北の首都の寒さを予期するかのごとく、まだ枯れ色のまま。 時折簡略漢字の道路標識が色を添える以外空港から首都への道はモノトーンが続く。 北京の空港について一番びっくりするのは漢字王国である中国の首部のいろいろな表示の多くが簡略漢字で表示されていて日本人には理解出来ない事で、併記されている英語(ローマ字)の意味を解して納得する事が多い。 我々が云う京劇と呼ぶ中国の芝居など香港の早朝番組などで放送されているが、すべて字幕が流されていて、香港の人々は外国映画と同様にこれにより意味を知り、セリフを理解するのが北京に来てはじめて理解出来る。 同じ中国言語の国でありながら、台湾や香港は漢字の簡略もあまりしておらず、また旧式漢字も併用しているので、難しい漢字はいまや台湾、香港の子供達の方が理解度が高い様だ。

日本を代表するエアラインである日本航空が経営するホテル『京倫飯店』は釣具展示会が行われる国際貿易中心と隣接しており、我々の様な地元無知の来訪者にとって便利至極、その上ホテル従業員の中には日本語が解る人も多く、何よりである。 中華、日本、洋食と食べ物も好きなものが選択出来、申し分ない。 その上ホテル内に銀行があり、両替も香港や他国の様に両替率がホテルだからといって悪くない。 市中銀行と同一なのだ。 ホテルの宿泊も他国の様に一々枕銭と称するチップは不要で特別にサービスを願った場合を除いて、北京では小銭の必要はない。 同じ様に食事のあとでチップ加算のややこしい作業が北京では必要ない。

今年の中国国際釣魚用品交易展覧会(CHINA FISH2000)は二月十九日から四日間開催された。 このショーは一九九一年に第一回が開催され、中国の業者を中心として、日本、米国、欧州、韓国などについで釣り具展示会として運営されて来たもので、本年は十回目を迎えた。
会場は貿易センターの一〜二階の一万平方米の会場で、中国の二百社を中心に、台湾、香港、近隣諸国、日本などが参加、欧州からも一社、そして米国スポーツフィッシング協会のブースが出展していた。 昨年までは台湾の勢力が目立っていたが今年はなんとなく勢力減衰の感が強く二日目以後の一般公開日には展示を止めて撤収する出展者も見られた。 日本からも数社が出展していたが、直接の出展はほとんどなく、現地の代理店などが代行出展の形を取っていた。
昨年に比べて全体的にショー全体に輝きがなく、また来場者の反応も新製品や、ユニークさに欠けるとの意見が大半を占めた。 これは特に日本などの下請けを行っている小物業者が日本などからの受注減のあおりを受け、本年前半の減益を厳しく受け止めている印象が見られた。 勿論この現象は釣り具だけに止まらず、現地百貨店、中小小売店などにまで波及しており、日本文字が氾濫する包装、化粧箱のままの製品が道路などで乱売されている風景が多々見られた。

米国スポーツフィッシング協会のマーク・マスターソン会長が来賓としてショーに参画されていたが、日本、欧州などからは業界要人の出席はなかった。 一九九○年頃にゴールデンエージを迎えた我が釣り具業界であったが、その後の衰勢を見ていると、二○○○年を迎えて各国でのショーの運営や、グローバルネットの異変など、どこか変化が始まっている様な感じを受けるのは小生だけであればよいのだが。

駆け足でみた北京であるが、昨年と比べても、この首都が急速に変貌を遂げている事が解る。 中国政府と上層部は何を主眼としているか判らぬが市民生活は益々欧米化している。 特に青少年の生活ではいまでは欧米や日本と変わらぬ様になっていて、もはやマックでは驚かない。 ディスコなども日本を越えていると思う程の場所が北京のあちこちに見られる。 グッチ、プラダ、ルイヴィトンなども若者に大人気で唯違うのはこれらのほとんどがコピー。 シャネルの小さなバッグが一五○○円で買えるのであまりブランドものも苦にならす手に入る。 勿論本物ではないがこの辺がミラノの人々とは違うところで、周りもほとんどコピー愛用者なので気にする方が田舎者といった按配で、考え方の違いが重要。

八人で現地人と北京ダックの夕食を取って支払った代金は五○米ドル余り。 つまり五千円。 ひとり当たり七○○円見当で三羽の北京ダックとビールなどを平らげての話。 でも日本人だけでいったら絶対黙って二万円。 依然として二重価格は現存していることも事実で、ホテルで日本人がビールを飲むと四七五円が相場、でも現地の人は時間帯によっては二四○円、つまり夕方の割り引き時間、ハッピーアワーであっても、云わないと日本人は普通の代金を請求される。

昨年一年は周辺掘り返しで難儀した天安門広場、そして、王府井、東単、西単なとが整備されてなんと地下鉄も開業した。 展示会場の貿易中心も地下鉄と直結し、周辺の地下はほとんどが商業スペース、地下の複層階にはスケートリンク、デパート、映画館などが軒を連ねる。 何せ冬には零下二十度も現存する北の首都であり、地下への依存度は札幌並、そしてハウス育ちの花花が通路に咲き乱れる様はとても一昔前の中国の写真と置き換えられない。 女性の運転手で運行される新地下鉄は車内も明るく清潔で、運賃はなんと二十五円。 保温や、安全、保安など種々の理由から地下鉄新線は地下二〇米付近を走行する。 ホームまではエスカレーターなどで結ばれているが、普段は上りのみ。 下りは階段を下りて歩行訓練。

東京/北京線は日本航空は七四七新型ジャンボ、そして全日空は七七七の新型、どちらも国際線では最短路線でありながら代表機種を使用している。
北京/東京は約二・五時間、その間にどうゆう訳か日中政府はフルサービスを要求するらしく、飲み物、食事、免税機内販売まで行う。 離陸して水平飛行になるとビール、ワインなどサービスしてくれるのはありがたいが、なんとせわしい事か、その上最近のエコノミーの食事は学校給食よりひどく肉などは精々三○グラム。 若千の野菜と不味いメシ、スライス一枚のサーモンとゴミ野菜のサラダで終わり。 どう見積もっても合計原価は二五○円程度。 ビールだって缶ビール二本が限度、余りのひどさに文句を云う気力もないままに成田帰着。 通常、機内でサービスをしてくれるスチュワーデスさんは、機内で出した食事で余ったものを、自分たちも食べる。 東京/北京路線では飛行時間も短い関係で機内乗務員もすべて日帰り、つまりメニューに出ている食事を一日二回も食べるはめになる。
勿論ビジネスやファーストの食事が残って食べられればラッキーだが乗務員の食事が出来る時間はなんと一〇〜一五分程前後それも到着地に近かづいてから。
健康的に考えればそんなときはフォアグラよりごぼう巻の牛肉の方がヘルシーかも知れないが、そばや副食もなしで隠元と白菜を薄い牛肉で巻いた五センチくらいで切ったもの二個と、ジャガイモとご飯、これを『牛肉ねぎま風、香付飯添え』と献立に書く勇気ある航空会社には驚かされるが食べる側は粗末さにげんなりだろう。
一九七二年に最初に機内食の記録を初めて今年で二十八年目になるが今後どう変わるのかイササカ心配な質素過ぎる機内食である。

(平成十年)


[Top Page][Index][Top][Contents]


釣具展示会東西顛末期

我が釣り具産業界にとって平成十一年は過去三年間の混迷のなかで、最も変化の多い年となった。 日本では最古の歴史を持った業界のリーダーでもあった東京釣用品協同組合か終焉を迎えるに至った。 戦後の復興の槌音の中の昭和二十九年、日本の釣り具産業の将来を見据えての発足であり、主眼のひとつは日本の釣具製造業者への支援を目的としたものであった。 当時は卸業者のパワーが強く釣り具業界の中小企業の育成のためにも、またメーカーとの共存のためにも協同組合法にもとずく結束が不可欠でもあった。 釣り具の世界では製造業者と位置づけ出来る企業は極少数にとどまっており、家内工業的要因が残る職人群の域を出ない人々を結束し、相互補助を推進する必要があった。 後年製造業者が収束して釣具製造組合が創設されたが、多くの製造業者は組合員として、東京の組合に加盟を存続し役員なども送り込む共存策が取られた。 その後昭和三十五年には釣具小売商組合と合併し、製造から小売まで流通の全てを取り込んだ異色ある組合として躍進した。 さらに出版、報道など釣り具関連企業まで、組合員として組み込み、主体事業である見本市の開催が決定しその第一回が開催されるに至ったのは、昭和三十八年(一九六三年)であった。 製造業者自身での見本市の開催は当時の業界の現状からむずかしく、卸企業の助けを必要としていた。 また特に中小製造企業の商品等の紹介も必須のことであり、東釣協ではこれらの状況を勘案し、小売業者を対象とした見本市の開催を決定した。 この決定の前年、当時の常見商店は自社の取り扱い商品を中心とした業者内覧会(小規模見本市)を開催し、好評裏に終了した経緯なども組合事業としての見本市開催の具申となっている。 産経会館を会場として二十二社が出展、業者二千人が来場した。
ちなみに当時既に組合化していた米国釣具製造組合(AFTMA)は業界事業としての見本市をシカゴなどで開催していたが、それ以外業界として専門の見本市は海外でも存在しなかった。

翌年には倍増した出展希望者のために産経会館の国際ホールを会場として開催、一般公開を行う事になった。 その後はこのスタイルが定着し、業者日と一般公開日の変動などがあったが、最後まで業者と需要家両方を迎える方針の変更はなかった。 数年後からはじまった大阪のショーでも同様のスタイルが採用されている。 欧米では業者と一般需要家を対象としたショーは別途に開催するのがほとんどで、業者日と一般日を区分けして、単一会場で行う例は少ない。 この方式は外国では一九九五年頃から開催されたブラジルのへイペスカショーだけであった。 この方式の決定には数年にわたる出展業者などの反応、意見、希望などを集約した結果のもので、基本的には出展者、入場者の双方から受け入れられ、フィッシングショーのスタイルとして定着した。
昭和五十四年頃から、欧州の釣り具業者はドイツ・ケルンで開催されてきたスポガアウトドア関係ショーでの釣具および関連業種への対応に不満が起こり、スポガをボイコットして欧州釣り具業者団体の設立と自主ショーの開催を模索していた。 釣り具の業界自体他の産業からみれば小規模の域を出ない産業であるが、欧州においてはその中でも日本の企業が、ずば抜けて業界を占有しており、業者団体の設立に対して一部の強硬意見は日本業者はボイコットせよとの要求であった。 しかし欧州自体の釣り具産業の多くが日本または極東の業者に依存している実態から、日本のボイコットを認めれば組織の設立は至難との結論であった。 昭和五十六年(一九八一年)、スポガに代わる釣具関係の自主団体としてエフタ(EFTTA)が難産の末誕生し、同組織が主催するショー、エフテックスは日本などの正会員以外の各社の出展ブースのサイズ制限など形式的な制約を課して翌年昭和五十七年から自主ショーの開催を決議した。
欧州のバケーションシーズンの直前、六月に英国バーミンガムにおいて第一回エフテックス(EFTTEX)が開催された。 会場は予想通り日本のブランドが目白押しの感が見られ、日本反対勢の反発を受けた、しかし現実は日本に撤退されたらショーは成立しない程の力があり、主催者としてもジレンマに悩まされる結果となった。 翌年の一九八三年のパリからは早くも当初の規制を撤廃して開催の運びとなった。 多数国参加ながら規模も小さい関係でこの年は、シャンゼリゼの西端のホテルの回廊が会場となった。 日本人にとっては好都合の場所で、同じビルの中にパリ大丸がありインスタント食品など入手出来た。 一九八五年エフテックスはデンマークのコペンハーゲンにおいて開催された。
一夕、世界に知られているチボリ公園においてレセプションが行われ、賓客として招かれた常見東釣協理事長が祝辞を述べるとともに、エフタ会長であった(当時)ビラー氏との面談の際、東京ショーを欧米のエフタ会員にも門出を開く様に要請を受けた。 東京側に異存はなく、この申し出を快諾したが同席していた米国釣具協同組合のフォイル会長からも同様の優遇をと要請され、協議の末に、世界三大ショーと位置付けされてきている米国のAFTMAショー、欧州のEFTTEXショー、そして東京フィッシングショーをそれぞれの団体に加盟するメンバーにたいして、会員待遇出展を承認した。 さらに東釣協ではこの意義ある提携を進展させる意から一九八六年のショーから名称を東京国際フィッシングショーとしてショーの構成をふくむ改善を行った。
東京国際フィッシングショーの一回目として釣聖と呼ばれるアイザック・ウォルトン回顧展を海外取材を敢行して行った。 釣りの経典といわれる釣魚大全などの展示、大英博物館所蔵の初版本の複写フィルムの公開など、一般公開ショーのためのイベントも国際化を図って挙行された。 一九八八年からは二つの海外団体会員の製品展示『世界のウインドショッピング』が開始され、エフテックスでも同様の企画展示が行われている。 東京国際フィッシングショーには海外からの直接出展が始まり、また一九八九年からは三団体相互の提携コマが設置され、それぞれのショーの広報、出展者の募集などが行える様になった。
この年のEFTTEXショーでは日欧米の協議でグローバルな視野を踏まえた国際機関の設置が検討され、持ち帰り協議としての懸案が生まれた。 世界的に広めたい釣り場の保護、明日の釣り人の育成、環境保全などを世界規模でプロモートすべきとの考えから生まれたボランティア活動の推進機関の設立である。 この団体は後日国際スポーツフィッシング協議会と命名された。
日本では、この方策に全面賛意を示し東京、大阪の両釣り関係組合、日釣工そして最もこの運動にふさわしい団体日釣振が母体となった日本支部が結成された。 そして日本代表などの人選がおこなわれた。
その後欧米と東釣協間の交流は拡大の方向で推移して来た。 特に欧州のEFTTEXショーに対しては種々にわたるノーハウの交換、共同企画の推進を積極的に行うとともに、同ショーヘの日本からの出展、視察などの参加案内窓口としてもその役割を担ってきた。 この経緯は日釣工とのショー共催になっても継続されたが、東釣協のショーの終結とともに現在ではお座なりの国際協調になっている様で、国際出展も減衰している。
東京のショーは旧協力者でもあった日釣工会員の意図的なボイコットとショー乗っ取りに近い妨害により継続が困難となり一九九六年二月の第三十四回を最後に終止符を打つ結果となった。 同年三月には日釣工が単独でフィッシングショーを横浜で旗揚げし工業会の結束を鼓舞し翌一九九七年の東釣工の会場予約の譲渡を申し入れ、事実上の乗っ取り策を行使した。 一部の東釣協の役員を取り込んでの策がなされ、以後二年間にわたって、東釣協への慰謝料的な金員として三千五百万円が支払われたが、これを契機に東釣協は主事業であり、収入源の全てを失う事となった。
一九九九年夏、東釣協の臨時総会で組合の解散が議決された。 さらに九月三十日をもって正式に解散の清算がなされる事になった。 金員の額が適当かどうかは判らないが、少なくとも三十四回にわたるショーがもたらした業界内外への貢献をそっくり引き継ぐ結果となったJOSPOショーは『漁夫の利』ではなかろうか。

一九九七年夏、米国フライフィッシング協会(AFTTA)は既に十回を迎えた国際フライタックルデーラーショーに対して、共催またはショー主権の譲渡を迫った。 一九八八年の秋、コロラド州デンバーで業界誌であるFTD(フライタックルデーラー)が業界の発展と自誌の営業拡大を目的として始めたショーである。 一九九○年に入るとフライフィッシングは米国でも急激な人口増となり、またフライフィッシングに参画する国が拡大した。 日本などもこの頃から大幅な人口増となった。 ショーは順調に拡大し、牧草の中のホテルの展示場から州立のコンベンションホールを会場に移す程に成長し、ショーの名称も国際フライフィッシングディーラーショーとした。 その矢先のフライフィッシング協会の申し出は、FTDとしては受け入れられるものではなかった。 協会側はそれならばと他のプロモーターとの接触を試み、その結果フリーマン出版社が共催の形で新しいショーを画策し会場を既製のデンバーのあるコロラド州の隣、ユタ州ソルトレーク市に候補地を選んだ。 一九九八年冒頭から協会では会員に対して自主的なショーであり、会員の参加を訴え同時にFTDへの応援拒絶を表明した。 FTDでも思わぬ伏兵に驚き、フライフィッシング協会に改善を申し入れたが既に協会側は硬化していて、申し入れは受け入れなかった。 そこでFTDでは一九九九年からは東西でのIFTDショーの開催を発表、さらに小売業者などとの利便を考えたが、一九九八年両方のショーが終了した時点ではIFTDは惨敗となり、結果としてソルトレークに軍配が上がった。 その結果IFTDでは一九九九年のデンバーにおけるショーの開催を早々と断念、西側のショーはAFTTAに委ね、東のバルティモアでのショーをIFTDの継続として実施すべく準備に入った。 ところが東釣協のショーの黎明期と同様に、弱小企業や個人事業家が多いフライフィッシングの世界では毎年二ヵ所でショーに参加するほどゆとりもなく、また協会からの見えないプレッシャーがバルティモアへの参加を躊躇させる結果となり、出展者の数が予想を大幅に下廻り中止を余儀なくさせる結果となった、さらに追い打ちをかける様にAFTTAのボイコット効果が予想外の方にも影響を与え、FTD誌自体の発刊も停止に至っている。 日本の例では数年を要しているが米国のこの事件はわずか二年の間に完全な失速と乗っ取り同様な打撃を与えていて、日本よりインパクトが強い。 まさしくこれも『漁夫の利』と言える。

南米唯一のフィッシングショーであるFEIPESCAが始まって六〜七年になるが、本年のショーを限りに空中分解に近い終結を迎えた。 ブラジル・サンパウロの展示場を会場として、業者、一般と東京ショーに類似したイベントなどを中心に構成されていた。 南米らしく宵っ張りの朝寝坊タイプのショーは正午過ぎからオープンで終わりは毎日午後十時、それから夕食、飲酒となるので就寝は午前様が当然。 そんなのんびりしたショーであったが、会期が日本などにくらべると長い為か、多い年は十五万人を集めるショーとして、日本、欧州、米国などからも出展者が増大する傾向が見られた。 四年ほど前からはブラジル政府の貿易振興局が支援を始め、またプロモーションの費用の一部負担を始めるなど積極的な主催者の動きがあった。
ところが本年の四月のショー終了後、漁夫の利を得ようとして主催者と政府、そして支援団体三つ巴の駆け引きが尾を引いてしまい、政府はスポンサーから離脱、第三支援団体の無理強いに主催者が引き下がる結果となった。 第三支援者の一部が政府にすがり、二〇〇〇年以後のプロモートを始めているが、政府も乗り気うす、そのうえ関税など引き下げるとの約束が反古にされたままなので、日本や先進国からの輸入業者は高関税に悲鳴をあげており、フェイペスカの分裂を機に撤退する業者が続出していて、来年以降の予定が立たないのが現況である。 南米ではかくして漁夫の利は得られなかったが、事実上南米唯一のフィッシングショーは終焉を迎える結果となった。

なんとなく他人の揮で元気な感じを残しているのが、中国釣具見本市、これは中国の振興会的な団体が主体となってはじまった釣具関係ショーであるが、欧米などの下請けや、OEM専業メーカーなどが中国で増えた結果、台湾、韓国そして中国のトライアングルの関係が功を奏している風情が見られる。 只日本などは出展は見合わせて逆に中国業者の窓口として出展し、日本や欧米などの業者との縁結びを図る業者がではじめているのが、従来の欧米や日本のショーにはなかったもの。 同じアジア人として、また中国などは作る低価格帯の商品の一段上を開発する鍵として、日本の業者は手助けになる役目を果たすことが出来よう。 釣具のアジアからの買い付けや仕入れは欧米業者にとっては依然として魅力がある。 しかし添付される説明書や、部品リストなどをとると、日本製品と他のアジア製品には大差があり、付加価値に大きな差をつける。 これなども、日本の業者が側面から援助することにより、商品価値を引き上げる事が出未るとの判断からアジア側から日本の支援を望む体系に移行しつつある。
一九九八年香港において、ファッション分野で日本語ブームが起きた。 Tシャッなどに何でも日本語が印刷されているものが売れるブームで日本人から見ると意味不明であっても香港の人々は争って購入し、身につけた。 またショーの飾り付けなども日本漢字を採用したデザインパネルなどが多用されていて興味をひいたが、これなども日本が関与している製品と欧米に見られる事を意識してのものであって、アジア製であっても日本の技術が監修していると思わせるテクニックが珍重されての事である。
不思議と思われるかも知れないが、北京のショーで台湾業者のブースに日本人の説明員がおり、ヨーロッパからのバイヤーとの商談をこなしていた。 いまや日本製品は高額で採算がとれないが日本の技術の監修を得た台湾の製品は充分採算のとれる価格帯でバイヤーにとっても魅力ある商品として注目されていた。 日本は何も作らず、出来上がったアジア製品の監修と製品作成指導を主体として、存在感を持つ事が出来れば旧年彼らに取られた漁夫の利をこれから取り返すチャンスが生まれるかもしれぬ。

(平成十年)


[Top Page][Index][Top][Contents]


釣りを止めた口蹄疫

英国に端を発した口蹄疫は四月上旬現在で英国で一〇〇〇件を越える発生をみて、いまやその影響は欧州全体に広がりを見せている。 現実に英国を始め、アイルランド、オランダ、フランス、ドイツなどの各国に疫病が拡大し、英国だけで約百万の家畜が屠殺、焼却されている。 その処理のために軍隊が動員され旧飛行場の滑走路跡の敷地に数多くの埋葬のための穴がほられ、処分されているのを毎日のBBC放送が世界に知らせている。 日本の神戸ビーフの様に英国ではスコットランドのアンガス種の牛肉は、ローストなどにされ、欧州全土に売られてきた。 またラムと呼ばれる羊肉は英国ではもっとも大量に消費される食肉でいまやこの肉も地元の人々でも口に入らない様子で、一部の英国の肉屋では鳥肉だけしか売られていない地域もあるらしい。

口蹄疫の感染ルートのひとつに土がある。 昔は英国は欧州大陸とは海を隔てた独立独歩であったが、いまやユーロトンネルで地べたはつながってしまい、毎日何万もの自動車や、多くの人々の往来で大陸とイギリスは地続きになった。 そのために昔から云われた水際作戦はもはや役には立たず、疫病の伝染も地続きとなってしまった。 口蹄疫の発見以来、英国ではまず人口の数倍と云われる羊の管理が問題となった、羊は本来雨と湿気が多い英国でもその土地と気温に順応する家畜として飼育されて来たが、飼育の場所は限定されており、移動箇所も限られている。 しかし口蹄疫の伝染は、乾燥した土が風に舞い移動する現象が少なからず影響するので、英国特有のグリーンスリーブスでの羊たちが飛ばす土が、疫病の感染にかかわる恐れが大きいとされる。

英国では、ロンドンなどの都市をのぞき地方都市のほとんどは、町中を抜ければすぐ牧草地や、放牧地が点在するために、口蹄疫対象として人々の履物に付着する疫菌や車両のタイヤに付着する病原菌を除去するために、区々の入り口などに殺菌用具を準備して、土類の消毒を行っている。 デボンなどの地方では、地域により通常の路地なども通行禁止の場所があちこちに見られる。 さらに地域で開催されてきた朝市や、町民の祭り、集会などが中止となった。 国政選挙は数年おきに五月に行う事が決まっていたのに約半世紀を経てはじめて選挙の延期が口蹄疫の善処策を理由に決定された。 また空港などの交通機関では登場口などに殺菌カーペットを設置して乗客はすべてそのカーペットを通過する度に殺菌する処置が取られている。 日本でも既に成田空港などで欧州からの直行航空便の到着旅客は現在ボーディングブリッジに設置された殺菌カーペットを通る様になっている。

月曜から金曜までダークスーツで仕事をこなすか、カントリージャケットを一着して釣りを楽しむかが英国紳士と云われる程、英国では釣りはスポーツの中でも最右翼、特にトラウトフィッシングといわれる淡水釣りは、一四世紀頃から定着した英国の遊びとされている。 この国はスコットランドとウエールズの一部を除き山岳地帯は少ない丘陵地域が広がる。 昔の領主たちは水源確保のために人造の湖、池、運河を築き、その管理と水の品質を確保するために釣りを奨励したと云われる。 水源、家畜の放牧地帯、領地は三種の神器であった。 今回の口蹄疫の発生で駆除の方法としてまずあげられたのは、家畜の管理と疫病の有無、発見した場合の処分である。 次にこの疫病の感染と伝染の予防であった。 前述の土からの感染がまず阻止すべき初歩である点では、疑いがなくまたこの疫病の感染地区への人々の立ち入り阻止が重要と判断された水辺、湿地帯の土など最も感染率が高いとされる地域に立ち入る人はだれかとなった時、最初にその疑惑対象者になったのは、釣り人であった。 英国では家畜類の多くは放し飼いであり、放牧流域は河川があり釣り人と家畜は同じ土を踏み、歩く。 土が病原媒体であれば、釣り人は言うなれば病原菌を振り撤く元と、考えられてもどうにもならぬ。 結果的に汚染地域の土などの流出や移動を阻止する処置として、多くの地域で一時的に釣りの禁止が決定し、釣行が不可能となった。 口蹄疫と釣りは普通つながりを持つとは考えないのが通常であるが、確かに英国の風土や家畜管理を考えると釣り人はその中に存在することも間違いない事で、釣り人の自覚も必要と感じる。 日本とは同様に国の周囲を海に囲まれた英国であるが、釣りに関しては淡水釣りが主流のこの国では釣りが出来ないとなると釣り具の商売は万事休す、先日開催された国内の釣具展示会でも、息痴と不満が多く聞くかれたと云う。

英国人の食生活はいまや口蹄疫の影響で著しい変化を余儀なくされており、またウインピーのハンバーガーなども大幅値上げになっているらしい。 飛躍するが今やこの問題は国際線の機内食にまで影響を生じさせている。 世界の航空幹線である米国・ロンドン線は毎日多くの飛行機が往来し、それぞれの機内で食事が供される。 通常六〜七時間の飛行時間を要するこの線では、フルコースの食事が提供され、ステーキなどがサービスされるが口蹄疫発生以後の機内では、英国国内のフライトキッチッン社のステーキはほとんどがキャンセルか、チキンなどに変更されている。 米国の航空会社の一部では英国での搭載をやめて米国からの便に往復分のステーキを準備して対応するところもあるらしいが、乗客の方が危惧してかビーフの注文が激減していて、野菜食のメニューが毎便品薄の状態になっているらしい。 この機内食は国際間で協定があり機内で使用される食品すべては、洒類を含み特別免税の処置がとられている。 したがって食材に価格の変化が著しい場合には、安い国から購入してコストを維持する方法などが航空会社の手腕とされる。 ところが現在英国からの便では、米国から安い良質ビーフを用意しても、英国のケータリングで料理すると、まるで口蹄疫の病原体の様に思われるので、免税輪入も出来ないとぼやいている。

最近欧州釣具協同機構に寄せられた正会員から、口蹄疫の発生以来特にアジア各国の税関および検疫機関がフライタイイング材料の取引について、通常の消毒証明だけではなく、口蹄疫発生国の公式免疫証明を要求するなどの、非関税障壁が起きているとクレームが寄せられている。 国際間の協定として動植物については検疫制度が確定されていて、その中でも日本は特にこの検疫に厳しい国とされる。 通常これらの材料については国際間で定められた消毒を輪出国で行うが、日本では素材によりさらに日本への上陸に際して再消毒を実施される。 それだけではなく先年国際間で批准承認された動植物保護に基づくワシントンン条約議定書にある禁輪出入品の監視、調査が厳しく、飼育動物の一部にまで制限を課す様な過剰なまでの取り締まりまで存在する。 この様なクレームが起きるのは現在アジア地区だけに止まらず法定伝染病である口蹄疫が世界に拡大することを恐れる事に外ならぬ。

(平成十年)


[Top Page][Index][Top][Contents][Pre][Next]

Copyright (c) T.Arai, 2003. All rights reserved.

inserted by FC2 system