晩年のジョン タランティーノは彼のトーナメント記録が物語る様に、まさにキャスティングマシーンでした。 しかしながら多くのトーナメントキャスターがそうである様に彼も又、優れたフィッシャーマンでした。
タランティーノは若いころから、カリフォルニア州オークランド市に住む鉄道員のマイロン グレゴリーに釣りの指導を受けていました。 マイロンの人生のほとんどは、キャスティングとフライランの設計、研究に費やされたといってよいでしょう。 後年、彼は3Mに所属したレオン マーシュ所有のサイエンティフィックアングラーが研究を続けていたフライラインの完璧なテーパー設計に寄与したのです。
また、マイロンは国際キャステイング連盟の責任者となり、後には最初の会長に推挙されています。
若いタランティーノにとってマイロンは唯一の師であり、それ以上のキャスターとの出会いはありませんでしたが、サンフランシスコの彼の家に程近いゴールデングート キャスティング クラブで優秀なキャスター達のキャスティングを見る機会には恵まれていました。
この経験が彼の技術の向上、独自のスタイルに影響を与えています。
私が最初にタランティーノに会ったのは、彼がアマチュアキャスティング選手権で優勝した1957年でこの国際キャステイング連盟が独国キールで開催した選手権大会でした。
その後、彼の妙技は彼が米国におけるハーディー代理店となった1964年まで、各地での世界選手権大会で披露されました。この間はアマチュアとして活躍してきましたが、1964年プロに転向、爾来1970年に不運な最後を遂げるまで、輝かしい記録とともに過ごしました。
1950年後半、サンフランシスコにあるウインストン ロッド社の才能あるフライロッド デザイナー、ダグ メリックは重量クラスのグラスファイバロッドやブランクの設計、製作にたずさわるためにロスアンゼルスのケネディー フィッシャー社に転職しました。 メリックのデザインによるパワフルで斬新なアクションを有するロッドが次々に誕生しました。 これらの製品は今なお継続して特製品として販売されています。
タランティーノはメリックに自身の為の競技用ロッドの作製を依頼すると共にメリックの紹介でフィッシャー社のロッド設計に寄与する事となり、1960年の半ばにはフライラインの番手に合わせたグラスロッドシリーズが大成功をおさめました。
タランティーノは独自の継ぎ方法を開発、今日のハーディーロッドに採用されているスピゴットフェルールです。 これは大変重要な事で最初に採用されたこの継ぎ方式は「アメリカン ハーディー グラスコーナ」フライロッドでした。 従来の継ぎ方式とな異なり、内側と外側が平面に移動するもので、亀裂なども生じない、かつ円滑なアクションを伴うものでした。
タランテーノは1964年以降、ハーディーの米国代理店としての業務を遂行すると共に、彼を通じてフィッシャー社から、グラスファイバーブランクの供給を受ける事になりました。
1969年には製法、ブランクデザインなどのライセンス契約に発展し、現在まで20年余にわたる提携関係にあります。
1960年後半にはフィッシャー社はタランティーノの設計による3Mの為の「システム」シリーズの供給を開始、またハーディー社は同様に3M社に「システム」リールを開発納入しました。
この製品は米国以外の市場ではマーキスど呼ばれています。
この様にタランティーノとはキャスティングトーナメントでの経験をフライフィッシング関係の製造業者に多大な影響と事業拡大に寄与しています。
グラスファイバロッドのテーパー角の開発、リールデザイン、フライラインデザインなどがそれです。
私はタランティーノと共同で、アメリカ市場以外の為にマーキスリールに適合するグラスロッドの開発をしました。 その製品には彼の名前、JON E TARANTINOの頭文字 JET を冠したジェットセットです。 ゴールデンンゲート キャスティング ポンズでロッドのフィールドテストを二人で繰り返し行い、ロスアンゼルスのフィッシャー社は私達の設計変更指図書にもとずき、新しいデザインのテストロッドを航空便で毎日の様に送ってきました。 それはいまでも忘れられないエキサイティングな日々でした。
私とタランティーノは1957年から1966年まで10年間にわたり、世界キャスティングトーナメントで競い合う仲間でしたが、彼に打ち勝ったのは3回だけでした。
彼はパンアメリカン航空のドイツ人スチュワーデスのエリカと結婚、息子をひとり残しました。 1970年、タランティーノは彼の父親の冷蔵倉庫内である朝、強盗に射殺され不運な最後を遂げました。 息子はまだ2才でした。
ジョンタランティーノは公私ともに親友でありました。また彼の功績は現代フライフィッシングに大きな足跡を残しています。
以上