The House of Hardy

2001.12.05 update

前書きにかえて

3大メーカとして ORVIS, LEONARDと供にFly Fishingの発展に貢献してきた HARDY の歴史等について紹介します。 この資料は株式会社アングラーズリサーチの荒井利治氏が当時のHARDY社副社長 James Leighton Hardy 氏の供述・筆記と独自の調査を元に1983年に発行されたものです。 単なる1メーカの歴史というだけではなく近代Fly Fishingの歴史の一面として大変興味深く、貴重な資料となっているのは理解して頂けると思います。 ご好意によりこの資料の掲載をお許し頂いた荒井利治氏に深く感謝します。

さらに詳しいことを知りたい方はJames Leighton Hardy氏(HARDY社元副社長)の著書「THE HOUSE THE HARDY BROTHERS BUILT」を参照してください。(1998.10.15)

目次


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HARDYの歴史と背景

創業

1872年、John James Hardy と William Hardy の兄弟により銃砲、釣り竿、リール及び釣具を製造販売する店が Paikes Street, Alnwick に産声をあげました。 近代革命の声が地方にも伝わり出した時代ではありましたが、Scotlandの国境に近いこの地方では、旧式の工業が中心を占めており、新たに始める近代的なふたりのプランには多くの障害が待ち受けていたことは言うまでもありません。 創業までにふたりの間には多くの腹案や発明も含まれておりましたが、旧態な工業体制の中では活かすことができなかったのです。 釣具の製造が果たして企業として成り立つや否やも不安でした。既にNewcastleの町では鉄道馬車に代わり、軌道式鉄道の時代となりLondon-Scotland間の鉄道も整備されてきており、Londonでは地下鉄道が話題を独占していました。 ふたりの夢である本格的な釣具商としての期特と不安は田舎町でのひっそりとした開業となりました。 近隣の入々ヘの商売が主眼であった当初の方針は人々の口を通じて、意外に早く多くの釣り人の知られるところとなり、また交通期間の発達と共に全国に顧客を持つ程になるのにあまりの年月はかかりませんでした。 銃砲業が主体であったHARDY商会がその企業体形を釣具に依存始めたのは開業以来10年が経過した1881年の事です。 これまでの10年にはふたりの夢の一部が達成出来ただけで満足した訳ではありませんでした。 つまり顧客の希望に答えるだけではHARDYは単に一地方の釣り職人から脱皮できず、釣り道具をひとつの分野における商品として確立できないと考えていたからです。

既に多くのアジア産の竹を素材とした釣り竿を製造して、繰り返しの試験や販売した顧客からの意見と取り入れた自信作を基本にユーザーからの仕様に依らない不特定多数に販売出来る、また釣り竿の標準化を図るという構想がふたりの夢でもあったのです。

この頃、時を前後してアメリカでも竹を素材にしたロッドが登場し、話題となりつつありましたが英国気質のふたりにとっては、自分たちの製品こそはとの自信と技術力が博覧会への出品の形で表れたのです。 当時の釣り竿の素材は非常に多彩でした。 アフリカで産出される藤蔓に似た木材ウオルナットやチーク等の素材、蔦科の素材を加工したもの等釣り竿の原料として珍重されたのです。 HARDY兄弟はこれらの材料から東南アジアの原産であるトンキン竹を選び博覧会に出展する釣り竿に着手、初めて登録商標として<Palakona>の名称を使用しました。 爾後今日まで Palakonaの名が全てのHARDYの竹竿に冠されているのです。

ゴールドメダル受賞

全ての他製品を凌いでHARDY-Palakonaは博覧会でゴールドメダルを受賞、国の内外にその名が知られる事となり、従業員の確保、工場の拡張等博覧会以後の数年は多忙を極めましたが、1895年8月、英国スカボローで開催された国際トーナメントに John が自ら自作の Palakona竿で出場、フライキャスターとしての優勝を果しました。
18フィートのロッドでの遠投で46ヤード2フィート3インチ、10フィートのロッドにより28ヤード2フィート4インチの記録は当時としては無類のもので、記録と共にHARDY製品の人気を集める結果となったのです。 更に以後の各地でのトーナメントでの優勝の殆どを手中に収め、HARDYの名声を不動のものに導いたのです。

創始者である John は事業としての成功者に留まらず、多くのトーナメントにおける活動は近代フライフィッシングの成長に数々の示唆と助言を与えています。

彼の是はただ釣り具を製造して販売するだけではユーザーの満足は得られないと断言していました。 また、利益の追及だけでは人々に飽きられてしまう事も承知しており、技術の革新の重要性と同時にユーザーに全ての理解をと願い続けて来たのです。 顧客の満足とは、釣り具を売ることから釣り場のガイド、釣り上げた魚の保存や処分、完壁なまでのサービスを期することでした。 その姿勢は今日でも高い評価を受け、欧米の古書としてランクされているHARDYのカタログに見ることができます。 1872年の創業以来、HARDY兄弟商会の名で毎年、総合カタログが刊行され広く配布されました。 勿論HARDYの製品が全て収録されていた事は申すまでもありませんが、当時の一流と思われる他社の製品も併せて掲載して、ユーザーヘのサービスの万全を期しており、その上、約2/3の頁を各地の釣り情報やキャスティング技術の解説に当てています。 表題もカタログとは言わずにAnglers' Guideとしており彼の姿勢を知るひとつ言えます。 この表題は今日まで踏襲されておりHARDY社では正式にはカタログと呼んでいないのはこの理由からです。

発明と改良、Londonへの進出

博覧会での数々の授賞の自信が改良として表われたのは1882年からで、竿の継手を新案したLock Fast Jointが最初です。 砲金素材を使用して両側の継手面を差し込んだ後に90度回転させてロックさせるものでした。 これにより穂先が抜ける事無くキャスティングが出来、当時としては画期的なものでした。 続いて1884年には<W>リール取り付け装置を考案、今日の基礎となりました。 1890年には初めて主流であった Bridge Guide に代わる Snake Guide の採用、これもHARDYが最初に成し得たものです。

1900年の博覧会場に発表した初めての本格的 Palakonaサーモンロッドは九辺形のもので当時の雑誌<Fishing Gazette>にして"クラフトマンシップの総大成を示す名品"と絶賛されました。 釣り竿が美術品に準ずる評価を受けた記念すべき事です。 更に1911年には従来の各種ジョイントの改良を行うと共に、スクリュー式リール装着装置を実用新案特許を得ました。 この方式は現在では世界中の主要メーカーが採用している方式ですが、現在では発明者はHARDYであることを知る人は少ない様です。

国際トーナメントの普及と共にHARDYの顧客は海外にも増え、受註も大巾に拡大しました。 フランスのキャスティングクラブ<C.C.de.France>等との提携や特注ロッドの納入等次第に国際化の傾向に向かったのもこの頃からです。 同クラブの承認の下に、ヨーロッパのトーナメントをより普及させ、自由参加を狙って軽量クラスの標準モデルとして市販製品<C.C.de.France>7フィートクラス機種を発表、 John 自身の手でフランスの Bois-de-Boulougne に於て25ヤードをクリヤーし、製品の優秀性を披露しました。 重量はわずか23/4オンス、1911年にはこれより軽量のフライロッドは存在せず、世界一軽い竿として話題をさらいました。

William は社内にあって経営管理を主体に、 John が開発と自身によるプロモーションを担当して1920年台までのHARDYは世界のトップ釣具商として成長して来たのです。

企業として釣具の製造に成功したHARDY兄弟にとって、顧客を迎え入れるには Alnwick の町はあまりにも片田舎であり交通の便も良くありませんでした。 移転や拡張をして工場自体は活気に溢れておりましたが小売部門の拡充が迫られていました。 1895年頃から懸案だったLondonへの進出を実行に移し、更に英国の主要都市である Edinburgh と Manchester にも小売店舗を確保、1898年には3店共に営業を開始出来ました。

また、1908年には会社組織に組み替え片田舎の釣具商からの脱皮を計ると共に世界の釣具メーカーとして飛躍していったのです。

1900年代に入ると Foster と Robert の兄弟が仲間入りして、HARDY一族の事業はさらに拡大して行きます。 3都市の小売部の経営や管理そして John の社外活動の増大が彼等の助けを必要としたのです。

Londonの小売部門の業務は市内の釣りマニアだけではなく、瞬く間に全国に知られる事となり、更にに海外にも知らされました。 HARDY Anglers' Guide の毎年の印刷部数も数倍に膨れ上がる程でした。 また、7つの海を制すると言われた英国海軍や派出植民地の在英人等によるクチコミの効果が英国式の釣り技法を世界各国に於いて知られる結果となり、後年外国からの註文も増えることになります。

Johnの頭の中でいつも思うことはHARDY製品の良さを知って貰うには充分に使いこなす技術が必要でユーザーの理解なくしては製品も活かすことが出来ないとの持論を形として実行に移したいことでした。

新たな顧客の獲得

1800年代の終りの頃のLondonは近代革命も一段落していました。 人々の生活も安定しておりHARDYが小売部を開設したセントジェイムスの一角は中流階級以上の人々のショッピング地域です。 靴屋のロブ、コートのバーバリー、フォートナム:メースン等が隣組として軒を並べていました。 店の正面にはセント・ジェイムス公園とクイーンの教会が有り、何時の間にかHARDYの顧客には王室や貴族も含まれていました。 セント・ジェイムス公園の散歩の道すがらのコースに格好の店の位置が予想もしなかったほどの顧客を得たのです。 店の周囲には各種の酒類取引業者も多く王室御用達を務めていました。 またセント・ジェイムス村とあだ名される周辺は王室との関係が深く王室との取引を希望する業者にとっては格好の地でもありました。 1906年HARDYも英国皇太子の御用達に登用され、名声を更に拡大するチャンスとなったのは言うまでもありません。

王族へのフライキャスティングのレッスンがヒントとなり、Johnは懸案を実行する道はこれだと心に決めたのが個人教授制度でした。 Casting School of London の名の下にLondonの店でキャスティングの個人授業を始めたのもこの頃の事です。 後に国際トーナメントで知り合った Captain T.L.Edwards に全権を委任するまで、HARDY兄弟を中心に交代で教授を務め近代キャスティングの普及に寄与したのです。

現在でもLondon店のある Pall Mall 通りを始めとして、ピカデリーサーカス辺りから西側をウェストエンドと呼称していますが、これは旧市街であるザ・シチーから見た位置にあたります。 今日でもシチーは銀行や証券会社等が立ち並ぶビジネス街ですが、西側のダウンタウンとは今でも一線を画す地域です。 英国での釣りは第二のスポーツと言われ各階層で楽しまれています。また、London紳士の夢は2枚のダークスーツと5枚のスポーツジャケットと云います。 2枚のダークスーツで仕事をこなし、郊外での充分な休息こそが紳士の条件でもあるのです。 カントリーサイドの緑の中の生活をこよなく愛す国民性はビジネス街で働く人々に取ってはより以上のものでしょう。 John は時間に追われてウエストエンドの店に来ることが出来ない人々を思い、また更に顧客の確保を狙ってシチーの一隅にも支店を開設、終日ブラックタイの入々で賑わったと言われビジネス街の中にある異色の店はヨーロッパの財界、金融界の人々に寵愛されたのです。

The Perfect の誕生と世界進出

1881年のゴールドメダルの授賞はロッドに対して与えられたもので、リールの製造は遅れていました。 既に数社のリールメーカーが英国に存在しており、同じ物では競争できるほど条件が揃っていた訳ではありません。 既に主製品としてフライフィッシングに焦点を合わせていた John と William は誰にも負けないフライリールで商戦に参加を目論んで設計、開発に没頭していきます。 まず、1885年最初のモデルとして Nottingham を市場に発表していますが、このリールは彼等の満足するものでは無く、あくまで市場の興味を繋ぎ留める作戦でした。そして6年後の1891年世紀の名品といわれる Perfect を本格的に製造発売したのです。 以来7種のバリエーションを展開して、世界のフライ市場でこのシリーズのリールがトップの座を占めてゆきます。 1891年から1967年まで休む事無く生産されましたが、製造中断後米国を中心として製造再開の希望が殺到したため、新たに旧型を改良して1976年再び第一線に復帰今日に至っております。

1900年に入ると需要に答えてサイズ別、用途別のフライリールを始め、スピニングリールにも進出していきますが、これらの開発が後年の大物釣りのリールにまで拡大してゆくことになりました。 鉄砲鍛冶の技術をベースにした特殊な加工技能が高い評価を受け、文筆家等の富豪からの特別仕様のリールの受註がそれで、Zane Greyリール等の形になって市場に出ました。 Foster と Robert の2兄弟に加えて新たに Laurence Robert Hardy が企業に加わったのもリールの開発に拍車をかけました。 次々に新案を打ち出すと共に実用化を計りました。工場の機械等を一新して近代化を実行する共に、当時最先端の工作機械業者と共同で釣り具製造のための機器を開発、当時としては画期的な量産体制も可能にしました。

この頃 Laurence は同じ様に最新技術を模索していた Rolls Royce の主脳と知遇、爾来HARDYRolls Royce両社が広告の分野等で深く関わり合うことになったのです。 分野こそ異なるものの最新の技術とクラフトマンシップを生かしての世界の一流品作りが意気投合したのでしょう。 HARDY-London店の前に駐車する Rolls Royce の写真がAnglers' Guideの貢を飾り、恒例となったのは1920年代に遡れます。

初代の時代の終わりが近付いた1927年、 Laurence の2兄弟( Frederic と Alan )が経営に参画し海外への事業を拡大すべく準備に入りました。 また、英国王室の御用達が端で近隣の国でも各王家の人々がフライフィッシングに興味を持ち、御用令を受けました。 上流階級のスポーツとして定着していった時代でイタリアの王室、キング・オブ・スペイン、キング・オブ・アルフォンソ等の御用を務めることになったのです。 John と William は引退し、2代目として正式に Laurence と William Junior が就任、1928年HARDY兄弟商会は株式会社として、株式上場企業に成長してゆきます。

Laurence の外交手腕と製品に対しての厳しい管理はHARDY製品の飛躍的販売増となり、次々に発表するモデルは大歓迎を受けました。 今日、フライリールの原点であり最も完成度が高いと評価されている標準機種 Lightweight Range は1930年代には登場しており、モデルチェンジも無く50年余世界の市場に君臨しています。 初代 John と同じ様にトーナメントキャスターとしての彼の技能は各競技会で記録を更新、HARDY製品の宣伝力となったのです。 ヨーロッパ各地でのこれらのトーナメントに米国からのプロが本格参加する様になったのも米国ヘのHARDYの知名度を深める役になりました。

世界各国から代理店の申し出が増えたのもこの年代で、ヨーロッパを中心としてきた範囲を世界に拡大してゆきます。 米国、アフリカ、オーストラリア等と共に、英国植民地のインド、中近東、そして中国、日本等です。更に満州にも代理店契約をしておりフライフィッシングが世界に拡がりを見せた点が実証されています。

Palakonaの秘密兵器

Laurence の発明のひとつに竹竿の製造にとって極めて重要なものが有ります。 六角竿の製造ではまず、竹を三角に裁断しテーパーを付けてブランクを作ります。 このテーパーを付ける作業は全て職人の手でカンナによる手作業に頼っておりました。 彼はこの工程を全て機械に依り自動処理できる機械を考案、開発したのです。 この結果手作業による削りミスは無くなり、均一の物が出来る様になったのです。 製造能力が飛躍的に伸びると共に製品のバラつきが無くなり、安定した製品を送り出せることになったのです。 この考案は以後門外不出とされ長い間ベールに隠されていました。 当時はHARDYの Palakonaロッドが何故、均一の物が製造されるのかが話題となったのですが、この秘密作戦は一台の機械が持っていたのです。 また、この機械の完成により更に精密で複雑な竹片の組合せを可能にすると共に六角の素材の芯に補強材を埋め込んだり、中空にしたりすることが採用されました。 1935年トーナメント用として、軽量、強靭そして反発力が早いものが要求されましたが、 Laurence はこれに対応して開発納品した竿は中心に洋松素材を竹で包み込む工法を駆使、リクエストに答えました。 伸長力を増やし、二重構造による強度補強をするもので、洋松素材が軽量のために製品総重量が増えないというものでした。 此の成功は以後顕著に各トーナメントの記録となって表れ、標準製品にも採用され、Tourney や LRH Dry Fly, LRH Wet Fly 等の名で広く愛用されました。

初代 John はHARDYの名声を築くと共に世界で知られるキャスターでありましたが製法やデザインに於いては、手工業の域を越えられませんでしたが、2代目 Laurence は初代の是を踏襲しつつ、近代企業化を推進して今日見られる釣具業を確立した点で高く評価されているのです。 1937年 Fredric の息子である William 3世 が入社して、叔父 Laurence の事業を助けることになりました。 この時代技術革新に心を燃やす Laurence は航空事業にも興味を示し、関連企業と提携して工場の一部では航空機のエンジン部品の製造も行ないました。 当時のHARDYの機械加工技術の一端を示す一例といえます。順調に推移する Laurence の事業でしたが政治的には不穏な空気が支配を始めヨーロッパはやがて戦渦の波が押し寄せて来るのです。

第二次世界大戦

第二次世界大戦の勃発と共にHARDYの工場は第一次世界大戦と同様に英国海軍省および国防省から軍需工場の指定を受け、銃弾等の供給を始めましたが、戦時下でも釣具の製造を続行、更にゴルフクラブ、洋弓等 Laurence は素材不足を補う為に入手可能な素材を製品に仕上げるため苦心したのでした。 William 3世、そして William Junior の息子 James Leighton Hardy も戦地に送り、従業員も多く戦場に向かいました。 幸いにも早くから着手していた機械化が人員の不足を補い、女性工員による工場の稼働が出来たのは Laurence にとって不幸中の幸で兵器と釣具の両面製造の日々が続きました。

ドイツ軍によるロケット爆撃が連日Londonを見舞いました。 小売部のビルも被爆して全ての商品は灰と化しました。大戦が終わり、Londonに縁と平和が戻りましたが被害の傷跡はひどい状態で小売部の再興は難しい状況でした。 人が溢れていても仕事が無く、食料を始めとして殆どの物資は配給制が行なわれていたのです。

こんな時代に釣具を商う事は所詮無理と判断した Laurence は再建を一時断念し、顧客へのサービスを本杜で当分行なうことにしたのです。

William 3世 が戦地から戻り経営に復帰する事になり、また James も William Junior の後を引き継いで正式に入社して3代目がHARDYの将来の経営陣として確立したのです。 物不足、娯楽不足、何でも足りない時代の中で釣りの楽しみが急増して全国から応じ切れない程の修理以来や註文が来たのは予想しない事でした。 更にLondonの小売部の再開を世界の人々から要望されました。 1951年の春Londonのセントジェイムス村に残る戦争の生々しい傷跡の中でLondon店を再開したのでした。

人々に期特される喜びと釣人の満足を得るために−創始者 John の是がここでも生かされ踏襲されました。 爾来、世界の中にあって最も良く知られた釣具店でありアドバイザーとしても名声を欲しいままにしており、釣人のメッカと呼ばれています。

同時に個人教授サービスも再開したことは云うまでもありません。 1960年に入って Captain T.L.Edwards の引退と共に長く彼の助手でありパートナーとして従事して来た Johnnie W.Logan が専任として担当、100ヵ国を越える各国の人々に釣りの楽しみを伝授しています。 ある国家元首、首相、大臣等の政治家を始めジャズピアニストやスポーツマン等あらゆるジャンルの人々がHARDYを通じて釣りを知り、楽しんでいるのです。

第二次大戦は世界中に図り知れない被害を与えて終わりましたが、同時に沢山の物も開発しました。 樹脂素材の竿が米国で開発されたのも副産物のひとつといえます。

1950年の後半に入ると英国でも次々にこれらの素材を使用した製品が出廻りましたが、保守的な面を持つ英国では必ずしも歓迎されませんでした。 当時HARDYでもグラス樹脂の採用に踏み切れずにいました。 また、技術陣は新しい接着剤を開発、従来の二重構造や洋松素材を付用せずに充分な強度と柔軟性能を作り出せる Palakonaの製法を完成したのでした。 グラスロッドが拡がりを見せている市場に敢えて新製品<Hollokona>で勝負に出たのです。 特に米国市場を主に<Hollokona/Phantomロッド>を供給しましたが、多くの支持が得られずに終わりました。 しかし乍ら竹竿の支持者は確実に残っていることを信じていましたし、HARDYの愛好者からの期特は不変でした。

大いなる決断

Laurence と William Junior の時代が終わり、 William 3世 と James のコンビによる3代目に入ったは1960年の後半、本社のある Alnwick の都市計画により新工業団地に新たに工場及び本社の移転に着手、1965年4月、新たに稼働を開始しました。 しかし、この頃から竹の素材で大問題が起っていました。 ベトナム戦争が Palakonaの命である竹を戦煙と共に葬り去ったのです。 素材源であるトンキン竹が近い将来には入手出来なくなることが確実となったのです。 勿論中国との取引も過去長期に渡り行なって来たのですが、大戦後の中国は全ての条件が異なり交易には多くの制約下にあり、素材確保の為には難しい状況下でした。 勿論、新しい中国との交渉は履行され供給は可能でしたが充分に満足のゆく素材の将来に渡っての確保は疑問でした。 このため、グラス樹脂の採用が必須の状態となり、それには巨額の資金が必要となりましたが自己資金のみでの負担は無理がありました。 また米国を中心として採用されていたエポキシ樹脂系の素材では従来の竹のアクションや柔軟性能が引出せず、自社工場を作り独自の素材を生み出して対処したいと苦慮していたのです。

1967年、 William 3世 と James は資金捻出と将来の為に会社を売却して、大資本企業の一部門として再出発する事にし、株式上場を整理、Harris & Sheldon グループの傘下に属しました。 売却後も経営権はふたりに委ねられ、新事業計画の基にグループから工場建築資金を得たのです。 資金の導人の後、直ちに本格的にグラスロッドのブランク製造の計画と機械の導入、更に従業員の訓練等に入り、英国内各地の政府機関の技術試験施設の援助の下にフェノール樹脂を主体としたHARDY社独自のロッド素材の完成を見るに至りました。 時を同じくして1968年に米国のスポーツグラス社とノウハウの契杓をし、ブランクの製造に関して全面的にタイアップを計ると共に全てのブランクの一貫生産が可能となったのです。

更にこのブランク製造部門を分離独立し、 FIBATUBE LIMITED の名称の新会社組織として製造されたブランクをHARDY社が買い取る方式を採用しました。 これは他社でブランクの供給を希望された場合等、HARDYブランドとは分離して処理出来る事等の理由によるものでHARDY社100%出資の形を取っています。

新素材製品

市場に送り出したグラス素材による製品はその見事なまでの竹のイメージを残したアクションと柔軟性が評価され、釣人に受け入れられました。 また、著名プロにデザインを依頼して独自の特徴を持たせることも成功に導きました。 JET SETと呼ばれた各クラスのフライ竿は特にヒットした商品でイタリアの Jon E.Tarantino の手になるものです。 その他、英国のプロ、Fred Buller や Richard Walker 等にも得意の分野でデザインを依頼、数々の名品として使われました。

John, Laurence と2代に渡り数々のトーナメント記録を打ち出したHARDY一族の伝統を大叔父、叔父に倣い3代目は James が踏襲しています。 1950年代の後半から1960年の前半に於いて、数々のトーナメントに参加、7年問に渡りワールド・チャンピオンの座を確保しています。 業務のかたわら、世界各地を訪問して代理店等の主催するデモンストレーション等にも貢献し、フライキャスティングの普及に務めています。

現在副社長(セールス及びマーケッティング担当)として海外市場の全てを網羅しており、フライフィッシングの世界に於いて第一人者として評価されています。
また、 Charles の孫にあたる Ian Blagburn もヨーロッパに於けるトラウトディスタンスチャンピオンとして有名で現在HARDY社の広報部長の席に有ります。 要請による諸国でのデモンストレーションを始め、ノルウェーやScotlandでの定期的スクールを担当しています。 又、HARDY社が留保するTay川及びTweed川に於いてのサーモンフィッシングの開催等を担任し、需要家へのサービスに当たっております。

枯渇寸前の竹の素材はその後、中国の広州交易会での貿易制度の変更や自由化の政策により明るい兆しが見え出したのは1970年代になってからです。 しかし、市場では第二の革命とも云れるカーボン・グラファイト時代に移行し始めていました。 グラスロッドでの遅れで米国、日本等に差を付けられているHARDYにとって、今度は負けられない事態でした。 竹に未練を残しつつ大勢に従うことを余技なくさせられられたグラファイトの開発ではフェノール樹脂の成功に見られた柔軟製法を再び実現すべく、英国王室航空研究所との共同開発の道を選び、独自の創法とローリングを採用しています。 1975年には、初のモデルを公開して1977年から一般販売を始めました。 その中の一モデルには Farnborough の名称を付けましたがこれは英国王室航空研究所のある地名から名付けたものです。 ここでは毎年航空ショー等が開催されており英国航空開発の中心地でもあります。 この製法特許は共同所有として英国政府とHARDYの両者でパテント申請され留保されています。

未完 1983年9月2日


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HARDYの系譜


+---------------+---------------+---------------+---------------+---------------+---------------+
|		|		|		|		|		|		|
William		Frances		Emma		John		Foster		Robert		Charles
|						James						:
|												:
+---------------+---------------+---------------+---------------+---------------+		:
|		|		|		|		|		|		:
Laurence	William Jr	Harold John	Frederic	Alan		Marian		:
Robert		|				|						:
		|				|						:
+---------------+		+---------------+---------------+---------------+		W.Blagburn
|				|		|		|		|		:
James				Barbara		Joyce		William		Anthony		:
Leighton							Frederic			Ian Blagburn

( 注 : 等幅フォントで御覧願います )


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HARDYの主要製品と社内人事

HARDYの主要製品

創業から第一次世界大戦に至る間、HARDYは数多くの製品を送り出しています。 C.C.de France, Greenheart 等が初期の中でまず上げられますが、全てのこれらのロッドはハンドメイドでした。 高度の熟練技術を持つ職人の総集として Greenheart は特に高く評価されています。

また、ケーンロッドに多種の新案ジョイントが探用され使用しましたがこれらの中にはHARDYの考案によるLock Fast Jointも含まれています。 当時英国の権威ある釣り誌の Fishing Gazette はこの考案を<ロッドのジョイントの革命的なアイデア>として評しています。 当時作られていたロッドは Gold Medal, Perfection, Sir Edward Grey, the Pope, the Halford, the Knockabout, Houghton, Crown Houghton, the Itchen 等列記する事が出来ます。 また、Casting Club de France のロッドを当時2本継、7フィートで33/4オンスの軽量で仕上げたり、the High Rogan では16フィートのダブル層の竹の中心にスチールの芯を挿入して強度を補強しサーモンロッドに仕上げたのもこの特代に既に行っています。 さらに工場の一隅で大量のトラウトフライ、レークフライ、サーモンフライそして各種のルアー、シルクを原科にしたリーダーが作られていました。 特にリーダーの生産は当時の全ヨーロッパの使用量の大半をカバー出来る程で多種のサイズがあり、これらの製品名がリーダーの代名詞として通用した程です。

リールについても Perfect, St.George, the Bougle, the Uniqua, No.2 Silex な等のフライリールやスピニングリールが有ります。

そしていろいろな雑貨品はHARDYが釣りに関しては全てを網羅すると云われた程です。 瓶詰めの餌類、重り、スイヴェルや釣り針、皮革と竹製のロッドケースや道具箱、リールケース、モロッコやピッグスキンのフライ入れ、そして豪華なアリゲーターを使った物入れ、各種のメタルフライケース、キャンバス製の釣りバッグ、ウェダーやブーツ類、そして防水処理を施したコート等が思い出されます。 更に Sea Silex Reels を始めとしてソルトウォーター用のリール等にも進出、初期の Longstone 等は耐海水腐食として当時の新素材であるエボナイトを使う等の先取指向が見られます。 HARDYのアングリングナイフや計量器、ポケットに忍ばせる小型のウイスキーフラスクも勿論の事です。

銃砲商の部分もまだ健在でした。 従前のガンの修理のサービスを継承すると共に BoxlockShotguns を引き続き製造販売していました。 サイズは12, 16, 20ボーで英国で当時最もポピュラーなものです。 上流階級の遊びでもあるハンティングは当然の事ながらLondon店で好評を博し、当時旧シチー店では専門職を配置する程でした。

第二次世界大戦中とその直前も社業は順調に推移してきました。 いやなニュースを打ち消したい気持が人々を釣りに駆り立てたのでしょうか、大量なフライやリーダーの受注で工場は活気を呈していました。 また、軍需品の受註、納品に近在の主婦の手助けを必要とした程です。米国で開発されたナイロンは戦後英国に導入されましたが、この時はまだリーダーの素材は絹糸でした。 多くの女性が繭から釣り人の求めに応じたリーダー作りに励んだ毎日でした。 改良を加えた各種の餌類、ベイトスピナー、デボンミノー、スプーンそしてシルクフライライン等を送り出したのです。 リールでは Lightweight, Sunbeam, Silex Major 等を商品化し、これらのものは一部を除き現在まで変る事無く生産されています。

現在、ダイワ、オリンピックそしてABU等に代表される両軸リールですが、HARDYはこの時代に先鞭を付け実用化しています。 Silex Rex, Elarex 等がそれで世界で両軸リールを最初に発表したのはHARDYなのです。 また、今日数多く見られるスピニングリールも基本的に最初の開発はHARDYの手になるもので機構上で現在と殆ど遜色の無いものを1930年代に見ることが出来ます。 Altex に代表されるこれらのリールにはサイズ別に淡水用、海水用とありHARDYの世界で最初のパテントとなったワイヤーベール等もこの時代から装着されています。

シルクフライラインは常にオイルを使用して浮上性能を保持する必要がありました。 しかしオイルに良質のものが少なく、特にサーモンフィッシング等では頻度の塗り直しが要求されたものです。 サンシャインオイルと名付けた新処方のオイルを開発したのもこの頃の事で、爾後HARDYコロナフライラインは一段と普及、世界に知られる事になりました。 ポケットライングリース、魚の頭を叩くハンマー、フライ浮上剤、タイイングバイス、各種のハサミやツール類、そしてスポーツマンパイプ等生きたアイディアは全て商品に替えてゆく試みがなされた時代と云えましょう。

ロッドの分野を振り返って見ると、この時代に諸部門で機械化が図られ今日に継承されている事が判ります。 2代目社長 Laurence による竹にテーパーがけを自動に処理する装置等がその代表的なものですが、今日迄これ以上のものが見られないところをみると当時の技術力を測り知る事が出来ます。 Gold Medal, Perfection 等も健在で新たに Viscount Grey, Knockabout, J.J.Hardy, LRH Dry Fly, the Halford Dry Fly, the Rogue River, De-Luxe, Marvel, J.J.Triumph, Koh-i-Noor, Tourney, AHE Wood Salmon, Wye Salmon 等数知れぬ程の銘竿が登場してきます。 それにスピニングでは Wanless を忘れてはいけないでしよう。

大戦直後の1950年頃まではこの状態で推移できたのは、素材の確保について早くから充分なストックを用意したことが幸いしました。 1937年のカタログに見られるとおり、当時のHARDYはゴルフクラブ(竹製)も生産していた事も書き添えておきます。

Casting School of London

London店に於けるキャスティングスクール個人教授については残念ながら初期の記録が明確ではないのですが、創業以来HARDYのファミリーが担当してこの事に当たっていたと思われます。 その後、専任として1920年代から Mr.F.Tilton に委託、London店を通じてサービスを始めています。 現在はテニスで有名になった Wimbledon ですが、当時はゴルフクラブや緑地公園として知られスクール会場として使われています。

1930年代の後半からスクールの教授として Captain T.L.Edwards を登用、個人レッスンの強化を図りました。 彼は非常に多趣味と優れた才能の持ち主で英車ダイムラーのテストドライバーとしても知られていますが、フライフィッシングの世界でもこの特代の殆どの競技大会で優勝を飾り、チャンピオンの名を欲しいままにしていた程です。

London店がドイツ軍の攻撃で営業休止に追い込まれた間も、求める人があれば場所を替え、時差を利用して授業を継続したと云います。 ドイツ軍攻撃の下でレッスンとは、これもションブル魂でしようか。

1968年没する前日までスクールの日程を消化して、当時パートナーとして接してきた Johnnie W.Logan によると、当日の朝、Logan にスクールを委せる詳細の指示を出した後、ひとり自分の家で息を引き取ったのでした。

没前彼の全てとフライフィッシングについてまとめた著書が上梓されていますが、近代フライフィッシングの教書のひとつとして英国各地の図書館等でも保存されています。 既に絶版の為、今でも再版を希望する声も多いのですが彼の死後の出版を家族が望んでいない為、貴重な文献として保存されることでしょう。

後任として Johnnie W.Logan が引き続きキャスティングスクールを継承して1981年まで専任しました。 HARDYの本社のあるNorthumberland候のLondonの館である Syon Park の池をレッスン会場として、世界各地からの受講者にフライキャスティングを伝承したのです。 復興目覚ましい中でフライフィッングに対しての関心の増加は国内だけではなく、米国、カナダ、ヨーロッパ、東欧、日本そして中国と様々で Logan 在任中の人々は40ヵ国余を数えます。

また、英国内2ケ所にHARDY社専用のサーモン釣り場を確保し、毎年ベストシーズンには世界からパーティーが釣りを楽しめる様になっており、現在は本社広報部長の Ian Blagburn が担当しています。

海外への派遣スクールも年々開催数が増え、日本でも既に数回実施されております。 更にHARDY社で選任されたフライインストラクターが各国で誕生し、各々の海外代理店と協力してサービスにあたっております。

1981年 Logan の退任に伴い、Andrew Murray がLondon店のレッスン担当となりました。 Logan と同郷Scotlandの出身でトラウトからサーモンまで全てのフライフィッシングに熟知しており、今後の活躍が期待されています。 彼は既に1982年サンフランシスコで行われた競技会等に参加し、スティーブ・レイジェフ等と意見や技術を交換する等、英国技法だけではなく世界共通の統一見解を持つフライ技法を目指しています。

特筆しておきたい事は、歴代のHARDYの教授はいずれもHARDYの社員ではない事で、ある面では最もうるさい顧客の立場にある事です。 HARDY製品の最初のチェッカーとも云えます。 提供される道具類に不満があれば売れる前にクレームを付け、改善を要求します。 ある面でこれは消責者モニターとも云える事前検査でもあります。 受講者にはHARDYの道具を用意しますが、他社製品の使用を希望すれば勿論可能で更に使用中の道具の為のアドバイスもする決りになっているのです。 つまりユーザー側の代表的な存在としてフリーランスの立場で対処する思想は Edwards 以来変りません。

Edwards や Laurence の競技会での活躍や交友はHARDYの110年に亙る製品に数多くの示唆を与えてきました。 彼らの助言やデザイン等の協力は、HARDYのロッドやリール、そしてその他の製品に見ることができます。 古くには Charles Rits、Charles Orvice 等の先駆者や JET SET で知られた Jon E.Tarantino、近年では Richard Walker や Fred Buller 等がおります。

HARDY社内人事

ファミリーの人々について、歴史と背景の項に出て来ない点を補足しましょう。

1914年からの第一次世界大戦では Laurence に社業を任せて William二世 は英国機銃部隊に従軍しましたが、捕虜の身となりました。 解放後再び工場に戻り、社業に復帰しました。 従軍中に 初代William は生涯を終え地に眠りました。 1916年のことです。

William二世 は従軍で負傷したため、以前のような活躍ができず、無念の毎日でしたが兄弟の Frederic と Alan が新たに事業に参画してその分を補いましたが、1928年彼もまた、帰らぬ人となりました。

初代社長 John の死は劇的であり、また釣り人として最も理想の最後を遂げました。 1932年工場に程近いコケット河でサーモンフィッングの最中に心臓の発作に襲われ、美しい河の流れに看取られての人生を了えたのです。 釣りを愛し生涯の生活に選んだ釣り具と供に水音が葬送の曲となったのです。

1930年の最後は再びヨ−ロッパは戦火が拡大、やがて第二次世界大戦となり人々の生活を脅かしました。 William3世 も英国陸軍に1938年従軍し、史上最大の作戦といわれたドイツ軍との戦いでダンケルクで捕虜となり、解放まで不遇の日々を送りました。 帰国後社業に就きアシスタントワークマネージャーとして W.Blagburn の補左として本格的に従事、やがて三代目社長として推移して行きます。

W.Blagburn は Charles の娘婿で親在HARDY社の広報部長であり、プロインストラクターの Ian Blagburn の父親です。

James は父 William二世の没後すぐには社業に従事せず1939年英国機甲師団に入り、第二次大戦を過ごしました。 1948年に除隊するまでの約10年の歳月を軍人として活躍してきました。 特に機銃と乗馬は優れた技能を会得しており、現在も趣味として楽しんでいます。 その後、技能訓練センターでの機械加工部門を修しHARDY社の門をくぐりました。 ワークマネージャーを経て1969年から販売担当副社長として活躍中です。

1967年企業の近代化と社業維持の為に Harris & Sheldon のグループの一社として転身しましたが、経営陣はHARDYファミリーがそのまま継続してきました。 110年にわたる歴史と知名度を世界での経営に生かすためです。

そして1983年7月8日、三代目社長 William3世 の退任の日が来ました。 変りゆく時代の変遷は四代目をファミリーから選出出来ぬままにグループ本社から派遺された新社長 John Holland に移され即日就任しました。

現在残るファミリーは副社長 James と広報部長 Ian Blagburn のみとなりましたが、過去三代110年に生み出され育てられた製品と名声は長く次の時代へ残る事でしょう。


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HARDYの主な御用達の記録とエピソード

英国では釣りは第二の国技と云われる程ファンが多く、又釣り場が有ります。 丘陵地帯が全土の大半を占め、河川が多いのと貯水の為のリザボウーと呼ばれる人造池が点在するのです。 英国王室を始め、各地にある候爵や貴族の城、館の敷地内を河川が横切ることもままあることで、釣りの楽しみは全ての人々と身近かなのです。

HARDY社は英国の伝統である御用達の制度に合致して過去再度に亙る王室の御用を務めると共に、欧州の他の王家に使えてきました。

上記の他現在のエリザベス女王の母君であるクイーン・メリーも熱烈な釣りファンでありますが、既に退位されており御用達の対象とはされていませんがHARDY製品を御愛用です。 また、ケント公を始めとして英国貴族に多くの愛好者がおります。

日本では昭和天皇が皇太子時代に訪英され、Scotlandを始め各地を旅行され当時、HARDYのある Alnwick の隣村 Rothbury にあるArmstrong卿の館に一週間滞在されフライフィッシングを楽しまれている記録があり、HARDYの釣り具がお伴しております。

明治以来中禅寺湖の湖畔に建築されたフランス等の大使館別邸からも当時HARDYの製品が使われていた記録が残されています。

HARDY-London店はセントジェイムス宮殿の正面に位置しており、公式行事を了えた各国要人が警護も無いままショッピングに訪れます。 近年はアラブからの賓客もあり有形無形の姿で多くの御用達を務める結果となっています。

店の斜前はLondonで初めてガス灯が点燈された場所で記念のポールが現在復元されています。 100年前、そしてその前後のセントジェイムス村はLondonの核として上流社会の人々の溜り場でもあったようで、London店の賑わいが今でも聞こえてくる感じです。


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(付録) HARDYの所在地など


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