ハーディーとの19年 ジョニーローガンの思い出

クラブ(注1)顧問アングラーズリサーチ社長荒井利治氏に聞く

はじめに

この資料は元々はClub of Hardy Japan様が作成し、Web Pageに掲載していたものですが、Web Pageの整理に伴って掲載をやめてしまいました。 このような貴重な資料が消えてしまうのは残念でならないので、Club of Hardy Japan様にお願いして当Web Pageに掲載させて頂くことと致しました。

目次

関税を通らないフライライン

ジム・ハーディーがマーケットの拡大のために初めて来日したのは1969年のことです。 ジムは、当時デイリースポーツの釣り欄の担当でご自身もフライフィッシングをなさるこの間亡くなられた米地南嶺という人を頼って来日したのですが、そのときに紹介されたのが大阪にある「栄通商」という会社です。 そこが釣具の輸出をやっていた関係で、そこを紹介してもらって商売を展開しようとしたのですが、なにしろ当時は1ポンドが1,006円もする時代ですから、ハーディーの道具は国産やアメリカの釣具に比べて非常に高額で、そこではあまり商売がうまくいかなかったわけです。

当時、京橋に「つるや」という釣具屋がありまして、そこにはとさどきフライフィッシングをするお客さんが顔を出していたのですが、当時は日本からアメリカに竹の六角竿などが輪出されていたような時代でした。

喜楽」の先々代が進駐軍向けの六角竿などを作っていまして、これらの輸出を「栄通商」が行っていたわけです。

当時は竿のアクションも何もあったものではなかった。 なにしろ当時はまだAFTMAがフライラインの規格を作る前のシルクラインの時代ですから。 それでは拉致があかないというわけで、ハーディーは英国系の商社を頼るようになり、栄通商からイギリス系商社の「ドッドウェル」に乗り換えたのです。 1970年のことだったと思います。 そして「ドッドウェル」がハーディーを販売してくれないかと京橋の「つるや」に話を持ちかけて、リールとロッドを置くようになったわけです。

その当時、私は「新和貿易」という貿易会社におりました。 ここはコートランドの代理店で、私が輸入の責任者をしていました。 1971年のはじめだったと思いますが、「つるや」からフライラインを買いたいとの話がありまして、私も不勉強で、実はコートランドが釣糸屋だったということさえ知りませんでした。 コートランドはパラシュートの紐を戦時中扱っていたくらいですから、より糸で非常に有名だったわけです。 私は当時流行していたゴム入りの編み込んだベルトの輸入を担当していました。 そうかコートランドは釣糸も扱っているのかということで、その年にフライラインを5本輸入したのです。 ところがあんな糸ですから税関でも釣糸だとは認めてもらえないし、こちらも輸入してはみたものの、あんなものが飛ぶなどとは思ってもいないし、結局「つるや」でもどうやって売ればよいのかわからなかったわけです。

チャンドラーを呼ぼう

こうして一応ハーディーコートランドで道具はそろった。 あとは誰に教わればよいのか。 当時は米地南嶺、鈴木魚心、高田弘之、金子陽春といったそうそうたる御仁がいたのですが、皆自己流でフライフィッシングをやっていたものですから、日光の湯川で進駐軍がやっているのを見て覚えたといっても、人に見せられるようなものではなかったのです。 私も相談を受けたのですが、どうにもならないということで、当時の社長に「輸入する以上は正しく使う方法を教えないことには売れないだろう」と談判した結果、急きょレオン・チャンドラーを呼ぼうじゃないかということになって、翌年の1972年の秋にチャンドラーを呼ぶことになり、それで火がついたわけです。 65人位を忍野に集めてスクールを開きました。 半分以上は業者でした。 北は北海道から西は姫路あたりまでの人が集まって皆でフライフィッシングとはこういうものかと驚いたものです。

当時はルアーが全盛でしたが、これはいけるぞということになって、この頃には「ドッドウェル」への注文も少し増えました。 1973年の春にはジム・ハーディーがもう一度来日することになったので、ジム・ハーディーにもデモンストレーションをやってもらおうじゃないかということになりまして、箱根小涌園の芦ノ湖の別館でデモンストレーションをしてもらいましたが、このときの様子を渡辺さんという当時のフリーカメラマンが取材して週刊読売に掲載しています。

君が独立してやれ

話は前後しますが、チャンドラーを呼んだ直後に「つるや」から卸売業務を充実したいとの申し入れがあって私が「つるや」に出向することになりました。 ジム・ハーディーが箱根でデモンストレーションをやったときは、私はすでに「つるや」の卸売部門の「スパン」という会社にいたわけです。 「スパン」はもともとABUの代理店をやろうとして作った会社でした。 そこでABUの本社にあるスウェーデンのスパングスタという町の名前をとってつけたらしいのです。 私は後に本格的に商売を展開するため、出向ではなく正式に取締投として「スパン」に入社しました。

ところが、当時は「ドッドウェル」が高額なマージンをとっていたため、なかなか小売価格を下げることができなかったのです。 そこで1年後の1973年、直接やらせてもらえればもっと小売価格を下げられるし、もっと売り上げを伸ばすこともできるだろうとハーディーに直訴したのです。 1974年の秋にイギリスに行ってハーディーのOKをもらい、1974年に代理店が「ドッドウェル」から「スパン」に移ることになりました。

そのときのハーディーには、日本中にフライフイッシングを普及させたいという構想があり、もっと広くセールスを展開するというのが代理店を任せるに当たってハーディーが付けた条件だったのですが、「つるや」としては自分のところのオリジナルとしてハーディーを抱き込んで独占販売したいという意向があったわけです。 その結果、あちこちから販売させてくれないというクレームがハーディーにいくようになり、ハーディーから私のところにも文句がきました。 私もいろいろ調整したのですが、そうこうしているうちに1976年、ハーディーはもう代理店契約を更新しないと通告してきました。 私も元の会社に戻る覚悟をしましたが、そのときにハーディーから「もともと君が来てやりたいというから君に代理店を任せたのだから、もし君が独立してやりたいというのであれば続けてやってみてはどうか。」という話があり、1976年4月28日に独立したのが今のアングラーズリサーチ社です。

当時は資金もありませんでしたから苦労もありましたけれども、ハーディーは金銭のことはいわずにいくらでも商品を送ってくれました。 「金はできたら払え。」という感じでした。 それから1994年に辞めるまで19年、おそらく日本におけるハーディーの代理店としては一番長かったと思います。 いろいろと手を拡げないでハーディーコートランドといった特定のブランドだけを扱ってきたこともこれだけ長くやってくることができた一つの原因だったと思っています。

右ハンドルも必要だ

自分で代理店をやるようになってから常に考えていたことは、日本の釣り場の状況はイギリスやアメリカとは違うし、生息する魚も違うことです。 車でいえば左ハンドルだけではなく右ハンドルを作る必要があるということでしょうか。 この考え方がハーディーの一族に通じたわけで、おそらく日本以外にハーディーがここまで特注品に応じた例はないでしょう。 日本仕様として日本だけで販売したリールもありますし、ロッドもあります。 いろいろな形で日本の皆様に喜んでいただけるような商品をたくさん作りました。 復刻したパーフェクトリールもそうですし、マーベルW.F.ハーディーファントムC.C.de フランスなどの竹竿にしても、カタログから姿を消してもしばらくはありました。 これらは日本で注文して作らせたものです。 竹竿自体は1970年代まではありました。 その後、ベトナム戦争の影響で素材の竹がなくなってしまったために製造中止になるのですが、1980年代の初めまでは何種類か残っていたのです。 カタログが小さい版になってから一切竹竿が載らなくなりました。 最終的にはトラウト用7種類、サーモン用1種類、スピニング1種類の合計9種類の「パラコナ」シリーズだけになっています。 素材がなくなったためにこれまでのようないろいろな名前の竿が作れなくなってしまったので、これだけを細々と生産していたわけです。

「パラコナ」シリーズ自体が日本向けだったわけではないのですが、これらが製造中止になった1980年代以降になっても日本向けに作らせていました。 パラコナトラウトストリーム(注2)などは、私とイアン・ブラッグバーンが一緒に設計して作ったものです。 また、ファイバライトキャンパーも、当時日本にはこの長さでは延べ竿しかなかったものをなんとか二本継ぎにしようと作ったもので、渓流釣りをやる人にずいぶん重宝して使っていただきました。 これらは世界中探しても日本以外にはありません。 なぜならこれらは私たちが作ったものなので、イギリスのアンティーク市場にも出てこないし、ハーディーの歴史にも出てこないわけです。 パラコナ・フェザーウェイトグラファイトマーベルも同様に日本向けの特注品です。 1973年にファイバライト・ミッジというロッドがカタログに登場しています。 これはアメリカ向けの商品で、これはカタログにも載っていますが、ハーディーはこのとき31/2番というラインを3Mに注文して作らせています。

リールでいえば、マーキスフェザーウェイトゴールドは日本だけの特注品です。 思えばハーディーもずいぶんと日本のマーケットのために協力してくれたものです。 私も単なる代理店という関係でなく、ハーディーの出先機関のようなつもりでやってきましたから。 マーキスライトウェイトレンジのガンメタスプールも日本で売り出したものです。 これがなかなか好評で、マーキスに至っては後にガンメタスプールが標準となってしまいました。 特注品は標準品と違ってある程度数をまとめなければならないし、代理店が売り切る覚悟がなければできないので大変です。 一番最後に企画したのがジム・ハーディーのヤマメ(グラファイトロッド)ですが、これは予想以上の好評をいただきました。

竹竿はケースには入れない

グラスやカーボンに比べて竹竿を作る作業は気が遠くなるような手間がかかります。 三角に割いたものを張り合わせて60ワットの電球一個で接着剤の乾燥するのを待つわけですから。 一回にできる本数はせいぜい20〜30本程度のものです。 乾操させる段階で8割が製品にできれば良いところでしょう。 収縮率の違いで曲がってしまうものがあるわけです。 日本の和竿のように火入れもできません。 基本的にイギリスの竹竿づくりに熱を加えるという考え方はありません。 なぜならそこが弱くなってしまうからですハーディーの竿づくりの歴史上も、火入れの工程はどこにもありません。

使っているうちに曲がったとします。 すると、すべてのパーツを外し、特殊な薬品で接着剤を落としてもとの三角の状態に戻し、それからもう一度貼り直しを行うわけです。 ハーディーのオーバーホールは元の三角の状態に戻すことで、単にバーニッシュを塗り直すこととは違います。 そのため場合によってお客さんに数10ミリ程度短くなるという連絡が入ることがあります。

曲がりをチェックするといっても、日本のへら竿のように厳しいチェックはしません。 うるさい方も時にはいらっしゃいますが、基本的に一つの面に正しくガイドが乗っていればそれでよしとするわけで袋に入れてぶら下げておけばそれ程狂うものでもありません。 ハーディーの竿袋にはそのためのループが付いています。 特に先代の社長のW.F.ハーディーはアルミケースに入れることを嫌っていました。 ユーザーは竿を完全に乾燥させてからしまうわけではないので、未乾操のままアルミケースにしまえば竿を傷めるだけだというのです。

キャプテン・エドワーズとローガンの時代

有名なハーディーキャスティングスクールは、もともとテニスで有名なウインブルドン・パークで行っていたのですが、その後キャプテン・エドワーズの時代になってからサイオン・パークに移り、後にジョニー・ローガンが引き継いでいます。 このスクール、実はハーディーでやっているのではなく、あくまで個人教授として行っており、ハーディーとは専属契約を結んでいたのです。 ですからジョニー・ローガンハーディーの社員ではありませんでしたし、キャプテン・エドワーズに至っては仕事を4つ位持っていました。 ダイムラーのテストドライバーでもあったし、もともと軍用飛行機のキャプテンだったのです。 それと今でいうFlレーサーでもありましたし、当時のキャスティングのチャンピオンでもありました。 そして2代目のローレンスに請われてキャスティングスクールの教授になったのです。

もう亡くなって何年になるのでしょうか。 ジョニー・ローガンのことを少しお話しましょう。 ローガンはもともとBBCの社員だったのですが、大変な釣り好きで、キャプテン・エドワーズに師事してついには弟子のようになったわけです。 晩年は小柄な人でしたが、若い頃はかなり大柄だったそうです。

ローガンの時代はスクールの希望者が多すぎて申し込みを断るはどでした。 スクールだけで生計が十分成り立ったようで、ときには料金の何倍ものチップをもらうこともあったそうです。 西ドイツの元総理大臣のブラントやインドのマハラジャに教えたこともありました。 マハラジャに教えるときなど、ローガンが宿泊先のホテルまで出かけていって、ホテルのプールを借り切って教えたのだそうです。 こういう人が生徒ですから通常料金の何倍ものチップももらえるわけです。

ローガンはよく「ハーディーは自分に何もしてくれない。」とこぼしていました。 信じられない話ですが、ローガンハーディーから道具を買っていたのです。 もちろんスクールに必要なある程度のものはハーディーから支給されていたのですが、それを超えた分は金を払って買っていました。 ローガンがよくいっていたことなのですが、「自分はハーディーに一度たりとも自分の体に合わせて道具を作ってもらったことはない。」というのです。 でもローガンのところには引退した後もかなり多くの生徒が彼を慕って教わりにきたため、生計の足しになったとのことです。

もうハーディーの中にもローガンのことを良く知っている人はあまりいません。 逆に私がハーディーの社員からローガンのことを尋ねられることがあるくらいです。 私もローガンの私生活まで詳しく知っているわけではないのですが、BBCに勤めていた当時からキャプテン・エドワーズに惚れ込んで、見よう見まねでキャスティングを覚えていったのだと思います。 最初はキャプテン・エドワーズの生徒だったのですが、次第にそれを超えた関係になり、ローガンの話ではキャプテン・エドワーズが亡くなる前にキャプテン・エドワーズ自身からスクールの教授を継ぐように直接いわれたそうです。 そしてキャプテン・エドワーズが予約を受けていた生徒をそのまま引き継いだということです。 1960年代前半位のことだと思います。

1942年にぺルメルの店が爆撃で破壊され、1951年に再建されたのですが、ローガンスクールを引き継いだ1960年代前後は、イギリスをはじめヨーロッパ全体の景気が上向いてきて、余暇も生まれ、フライフィッシングを楽しむ人が増えた時代でした。 それだけ生徒も増えた時代だったのです。

ローガンは日本ではフライキャスティングの教授としてしか知られていませんが、実はスピニングの名手でもあり、当初はスピニングも教えていたのです。 1980年前後にはフライ専門になるのですが、これはフライだけで手一杯になってしまったためです。 カタログを見れば分かりますが、ハーディー自体もスピニングよりフライに力を入れるようになっています。 今と違って昔のカタログにはスピニングのこともかなり載いています。

長い竿で楽に釣る

ローガンは晩年、フライフィッシングが一番力を使わないので楽だといっていました。 そのせいかローガンは小柄な体のわりには長い竿を好んで使っていたのです。 ローガンは長い竿を使うことによって楽にキャスティングができるのだということを端的に示した人だったと思います。 こうした教え方がローガンの生徒が増えていった理由ではないでしょうか。 それはど宣伝もしませんでしたから評判は口伝えで拡がっていったのです。

ジャズピアニストのオスカー・ピーターソンなどは、ローガンに一度教わって以来、ロンドンで演奏会があるたびに教わらないまでも夕飯に招待したり演奏会に招待したりしたそうです。 人柄もさることながら、それだけ教え方がうまかったのでしょう。 道具をうまく使えば楽に釣りができるということを見事に実践して見せたのだと思います。

今だから話しますが、最後に来日したときなどは、高齢のせいかローガンもスクールの後半になると疲れてしまうわけです。 午後になると椅子に座るようになりました。 昔は決してなかったことです。 そのとき私が苦肉の策で考えたのが「身体障害者でも釣りができる」ということでして、車椅子に座ったキャスティングというものをローガンに提案したら、ローガンがそれは凄いアイデアだと感心しましてね。 それからどこの会場にいっても椅子に座ってのキャスティングを見せるようになりました。 ロンドンに帰ってもやるといっていましたし、後のスクールローガン自身も大変助かったとのことでした。 座ったはうが腰が安定するので竿が素直こ振れるというのです。 実際に生徒がやってみても、座ったほうが右手でも左手でも平均したラインが出せるということでした。 今考えればもう体が弱っていたのでしょうね。 でも日本にくると一躍スター扱いになってしまうわけです。 キャスティングだけでなく、サインをしたり、ほぼ一日中生徒と付き合うことになりますから、ローガンとしてはたとえ疲れていても嫌な顔はできなかったのでしょう。 本当に約りを愛していた根っからの釣り人間でした。

スクールはノーザンバーランド公の池で

ロンドンの周辺にも約り場はたくさんあります。 日本の管理釣り場のような溜め池ですが、持ち主である領主の手により12〜13世紀あたりから魚が入れられていました。 飲み水に毒が入っていないか見分けるためです。 お城の周辺にこうした貯水池を持つことは特にイングランドでは必須条件だったのです。 そこに放す魚は大抵鯉か鱒です。 このように個人が池を持っていますから、いくらか払えばそこで釣りができるわけです。

ローガンは純粋なスコティッシュで、ローガン家はスコットランドでは名門の家柄です。 もちろん現役中はロンドンの近くに住んでいました。 ローガンスクールを行った場所ですが、ハーディーの本社のあるアーニックにノーザンバーランド公のお城がありまして、これはイギリスでは3番目に大きいお城です。 田舎ですから公爵ははとんどロンドンに住んでおられたのですが、ハーディーのパトロンでもあったわけです。 公爵のロンドンの館のある場所がリッチモンドのすぐわきのサイオン・パークというところで、その中の大きな池で1985〜86年あたりまでスクールを行っていました。 公爵がその池を無償で貸してくれていたのです。 その後ローガンの自宅がハイパーネットというロンドンの一番北側に移転してサイオン・パークまで遠くなってしまったため、それからは自宅の近くにあるケンウッドという館のわきにある池を借りてスクールを行っていました。 ローガンが現役を退いてからは、後継者のアンドリューもそこで教えていました。 アンドリューはローガンの直接の弟子ではないのですが、ローガンからいろいろ教わっていると思います。 アンドリューは確かにキャスティングの腕は素晴らしかったのですが、授業の仕方は知らなかったので、教え方をローガンから習っていると思います。 今アンドリューはハーディーの社員になってアーニックの本社で広報の仕事をしていますが、スクールをやっている頃は社員ではありませんでした。 今は社員としてハーディーのためのデモンストレーターの仕事をしています。 ローガンハーディーの社員ではなかったので、竿の話は一切言いませんでした。 生徒の持ってきた竿で教えたのです。 そういう意味で、メーカーベったりにならない昔ながらのスクールのスタイルはローガンで終わってしまったといえるでしょう。 ローガンがやっていたことですから師匠のキャプテン・エドワーズもやっていたのだと思いますが、ローガンは大酒飲みでして、必ず生徒とはパブで落ち合って一杯飲んでから授業に出かけて、授業が終わるとまたパブに戻って一杯やるという感覚で教えていました。 アンドリューとは一緒に飲んだことはありますが、そこまでのゆとりはなかったようです。

ローガン・ランゲージ

私がいつも話すことなのですが、ローガンには「ローガン・ランゲージ」というものがありました。 言葉ではなく擬音語のような音でもって教えたのです。 それがローガン独特の技術でした。 擬音語で教えるやり方はローガン独自で編み出した手法だと思います。 キャプテン・エドワーズの時代は英語圏以外の外国人はそれほど来なかったのですが、ローガンの時代になると、インドやケニア、日本など世界各国から生徒がやってきます。 こうした英語の通じない人に教えるために独特の擬音による言葉を作り出していったのだと思います。 習っている人は英語はわからなくてもローガンの言葉はわかるようになるのです。 これがローガン独特の技術というか才能なのでしょう。

そのせいかもしれませんが、よく来日した外国人が片言の日本語を覚えて話すようなことがありますが、ローガンがそのような片言日本語を話すことは決してありませんでした。 話すときはスコットランド訛のある巻き舌のような感じのイングリッシュです。 でもレッスンになると英語ではなく擬音語が中心になるので、キャスティングのタイミングにしても生徒が受け入れやすくなるわけです。 私もスクールで全国各地を回りましたが、皆から喜ばれたという点ではローガンが一番でした。 技術ではレオン・チャンドラーの方がはるかに上だと思います。 しかし、生徒に理解させるという点ではローガンの方が上でした。

ローガンのような人は今後はなかなか出てこないでしょうね。 日本では多くの方がローガンに会っておられますので、それぞれの方がローガンという人を後世に語り伝える生き証人だと思います。(談)

当WebPage管理人による勝手な注釈

注1
Club of Hardy Japanのこと。本資料はClub of Hardy Japan様と荒井利治様の御好意により転載させて頂いております。
注2
ファイバライトトラウトストリームのことかもしれない。

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