Hardy Brothers 物語集

2007.1.1 update

ここに納めた文章は故荒井利治氏が執筆されたもので、荒井氏他界後御遺族から提供して頂いたものです。

目次


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ある釣り職人の家系と歴史

ハウス オブ ハーディー

1932年、世界の経済恐慌が当時優位を誇っていた英国にも押し寄せ、飢餓に苦しむ人々がロンドンなどの都市に溢れていた。 政府は軍事費を削減して福祉政策に努めたが、海軍部内などでは一部で反乱を生む結果ともなっていた。
第二次労働党内閣は財政上の問題と共に、絶対多数の勢力はなく、党首ラムジーマクドナルドは労働党と保守党の挙国連合内閣を組織せざるを得ない不安の情勢だった。

この様な世相の中でも上流階級を顧客とするハーディー一族の商売には影響もなく、ロンドンの店には毎日ロールスロイスで乗り付ける顧客への対応に追われて居た。 特にフライフィッシングは上流社会のシンボル的なスポーツとされた時代であり、活況を呈していた。
イングランドの北、アーニックの町は北海の気候をまともに受ける地で、朝夕はめっきり冷え込む。 J.J.ハーディーは毎日の日課で1‐2階の仕事場を一巡すると既に社長職を譲ったローレンスの部屋を訪れ、日課となった釣りの話をし、ギリー(釣りの付き人)を待った。 社業は順調に推移していたが伴侶に恵まれなかった彼にとって老いとともに、フライフィッシングは最愛のものとなっていた。 その日はサーモンフィッシングを予定して、久し振りに16フィートのロッドを用意した。 長兄のウイリアムは既に地に帰って5年を過ぎていたが、彼との釣行では必ず使っていたパラコナであったが、年を経て16フィートは重量があり、最近は使っていないロッドであったが、今日はどうしてもこのロッドでコケット河の大物を狙おうと心に決めていた。

ギリーの馬車が来て、釣り具を積み込み工場から約3マイル離れたコケット河に向かったのはかげろうの楳な北イングランドの太陽が真上になってからで、釣りは午後から夕暮れを狙っての釣行であった。

ノーザンバーランド公の居城があるアーニックの町には小さな凱旋門(ボンドゲート)があり、町の入口にもなっていた。 つまりこの門の中はボンドゲートインと呼ばれる城下町を形勢し、ハーディーの工場もその一角を占めていた。 アーニック城は現在でも英国国内にある居城としては三番目の規模を誇るもので、アルン川が敷地内を流れている。 1174年にはイングランドとスコットランド戦の激戦の場となったところでもある。
後年、イングランド軍が優勢に点じてスコットランドの敗退におわるが、城の規模に対して兵員の数がすくないこの城は戦さの後、城壁上に多数の兵士をかたどった人形を配し、あたかも多数の兵士が防御しているかに見せた。 現在でも多くの名残りの兵士人形が点在している。 実際に1639‐40年の宗教戦争の際、スコットランド軍はアーニックを避けて南下、ニューカッスルに攻め込んだ。 チャールス1世率いるイングランド軍は人形兵士に助けられ、アーニックを足場に北上したのである。
J.J.ハーディーはボンドゲートアウトにある第一次世界大戦の戦没者忠魂塔にくると馬車から降りて、パーシー(ノーザンバーランド県の別称)のシンボルであるライオン像を見上げ、しばしの祈りを捧げた。 工場の職人数名の名が刻まれたプレートに目を移すと、グリーンハートを懸命に削っていた顔、ぶつぶつ独り言をいいながらパーフェクトのギヤを仕上げていた姿を思い出す。 戦場に送り出した時の事、ふ報を知らされた夜のショック、未亡人となった人達をハーディーが雇用してガット(てぐす)加工をしてもらっている事など、いつになく色々な事を思い出していた。
忠魂塔の前にはジョージ5世の後援で作られた職工学校があり、J.J.ハーディーも関与していた。 当時英国政府は地方における実技教育を推進し、アーニックにもその制度がもたらされた。 近郊から生徒を公募し多職種の職人養成を行っていた。 ハーディー社はこの事業に協力、貢献すると共に卒業生を採用している。

昼近くコケット河のいつものビートに落ち着くと、ギリーが準備を了えるまでの間、川面をみつめた。 時折サーモンの背ひれがスーと川面を切る、まあそうあわてなさんな、今行くから。 石橋の下を抜けてくる風が背中からに変わるのを見計らってまず一投、16フィートで送り出すウィリーガンは風に乗ってポイントに当然のごとく着水、流れに乗る。 いつの間にかまた風が石橋から吹き出してきて、スペイキャストのやり直し。 気温も下がってきてギリーが昼食の支度に馬車に戻った。 ひとり者なのでいつもの事だが町のホテルにバスケットランチを用意させて、ギリーが迎えに来る途中で馬車に積み込んでくる。 また相変わらずのコールドローストラムかなと思っていると、鋭い当たりが来た。 まだ合わせには早い、もうひと呼吸と川面を見据えるとサーモンが軽くジャンプし、消えた。 一瞬遅かった合わせがサーモンにチャンスを与えた。 フライを確認しようとラインを巻き上げだした途端、胸に激痛が走った、心臓発作が彼を襲った、竿尻を芝に突き剌す様にしてロッドを握り締めたが、目の前が白くなってゆく。 耳鳴りがしてきてギリーを呼ぽうとしたが声にならない。 かすかに川面でサーモンが又跳ねる音を確かめるすべもなく、生涯最後の釣りが終わった。

1872年アーニックの片隅で産声をあげたハーディー兄弟商会の創始者ジョン ジェームス ハーディーの終えんは誰ひとりも看取る事なく迎えたが、最愛の釣りの最中、サーモン、好きだったコケット河、自身で仕上げた釣り具に囲まれての大往生であった。 自らメーカーであり、キャスターであり、そしてフライフィッシングの布教者でもあった50年、そしてハーディーファミリーのその後の発展など、英国の誇る世界の釣り具業者としての歴史はすべてJ.J.ハーディーが基盤となって今日に至っているのである。


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ハウス オブ ハーディーを愛する人々(抜粋)

1872年の創業以来、ハーディーの顧客には多くのハイソサエティーの人々がおり、ロンドン店には世界中からの来客で賑わう。

英国王室とも関係が深く、ジョージ5世をはじめ三代にわたる英国皇太子のご用達を受けている。 1937年にはバッキンガム宮殿の人形館にミニチュアのパラコナフライロッドが献上され、現在でも人形館に展示されている。
現在のエリザベス女王殿下の母、クイーンメリーもハーディーの愛用者で80才の誕生日は釣り場でもお祝いが行われた程。 今はなくなったが、第2次大戦前はスペイン、イタリアなどの王室のご用達もつとめた。
文壇では特に有名なのがザーングレイとヘミングウエーの2人、ザーングレーはハーディーの工場に乗り込んで初代のJ.J.ハーディーとトローリングリールを開発した。
1936年には1,000ポンドを越すブルーマーリンを釣果を記録した最初のトローリングリールである。 後年、彼の名前を冠したハーデイートローリングリールは今でも受注生産している世界一高額のリールである。
ヘミングウエーは鱒釣りの道具はすべてハーディーを指定していたのは有名で、ハンドメイドのロッドの愛用者であったが、ある時コレクションのすべての鱒釣り道具が盗まれた。 凝り性の性格からその日以来、ヘミングウエーは2度と川釣りには戻らなかったと息子が口述している。 以来彼は川釣りから海の大物釣りがスタートした。

英国王室に戻るが、シンブソン夫人と恋に落ちたエドワード8世はフランスに住む様になってもハーディーの製品を愛用された。 また皇太子時代、日本の昭和天皇(当時は皇太子)が最初の英国訪問をされ、お二人でスコットランドでサーモン釣りを楽しまれたが、お世話をしたのが当時のJ.J.ハーディーで、当然ハーディー製品が使用された。 洋式フライフィッシングを楽しまれた日本人は他ならぬ先代の天皇陛下かも知れぬ。 現在の徳仁皇太子もエジンバラ公よりオックスフォード在学中、何度も釣りを楽しまれており、当然ハーデイー製品を使用されている筈。

モダンジャズの巨匠のひとり、カナダ生まれのオスカーピーターソンも熱心なフライフィッシングの愛好者でロンドンPall Mall店の顧客。 ロンドン公演の際には必ず店を訪れ、釣り場や状態を調べて余暇をイングランドで釣りを楽しむ。 ドイツの元首相のブラント氏もハーディーでフライキャスティングの指導を受けて、以来ハーディーの愛好者である。

6月と1月の2回英国全土でセールと称する安売りの季節があり、ハロッズから駅前土産店までこぞって安売りの行うのが習わしであるが、ハーディーを含めて王室ご用遠の一部の店では未だにセールを行わない。 世界のハイソサエティの人々が使用しているものが、一時的にせよ安売りの対象にするのは無礼との判断からだ。

英国の影響を深く受けているインドでも高地では清流での鱒釣りなどが楽しめる。 高位のマハラジャもハーディーの顧客であるが、ロンドン店ではほとんど顧客名が記録されていない。 国情なのか習慣なのかいずれにしてもハーディー顧客はインドにも及ぶ。

(文責 HOUSE OF HARDY在日代理店株式会社アングラーズリサーチ)


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HARDY BROTHERS 第2次世界大戦の前後の変遷

1940年、二代目社長ローレンス R.ハーディー及びフレッド、アレンは次第に入手難になってきた素材の確保に追われる様になった。 まず日本からのガット素材や絹糸の入荷が停止した。 さらに鋼材の入荷が著しく厳しい状態にせまられ、またアルミニューム素材は軍用機などの軍需産業に優先される事になっていった。

1942年に入ると、さらに素材供給が枯渇し工場の一部の操業停止に追い込まれる結果となった。 WILLIAM,JIMの両名は相次いで召集され、戦地へと赴いた。 後にWILLIAMはドイツ軍の捕虜となり、終戦まぎわの解放まで帰国出来なかった。

1942年の秋、ドイツ軍のロンドン爆撃により、PALL MALLの店舗が破壊され、シティー店のみの営業となったが、それでもジョンブル精神果敢な英国人は週末の釣りを楽しむ為か、顧客は戦火をのがれて店に訪れた。 しかしほとんどのリールは底をついており需要に応じ切れなかったという。
ローレンスは、この窮状をしのぐ手段として以前より広告や、技術交換などで交流があったロールスロイス社に応援を仰ぎ、HARDYの旋盤技術を生かして、同社の下請け作業に従事することになった。 当時ロールスロイス社は軍用機のエンジンなどの生産をおこなっていた関係で、必要部品などの製造にHARDYの応援は納期を短縮出来、終戦までこの関係が継続された。 ただロールスロイス社の事情で、この関係は公表はされていない。

1945年春、欧州戦線はほぼ終戦を迎えドイツ軍の崩壊とともに、多くの将兵が復員し、HARDYの工場も落ち着きを取り戻すが、あいかわらず素材供給の道が見当たらず、一時は開店休業の状態となった。 幸いに米国で開発されたナイロンにより絹糸にかわるガットの生産や、アルミニュームの代用としてエボナイトなどを素材にしたフライボックスなどが生産される事になった。 パラコナについては、戦前の素材確保により戦後も製造の再開が出来たが、1960年代後半から素材の確保がベトナム戦争の為難しくなっていく。 1951年のPALL MALL店の再開により、HARDYは戦後の時代を迎えるが、米国などでは既にグラスファイバーロッドが大きく展開しており、自社製造製品だけでの商売は次第に難しくなり、小売店として他社ブランドをふくめた総合釣り具店に変化を遂げていく。 WILLIAMは復員後、既に老齢となってきたローレンスを助けて副社長として采配をふるう事となり、JAMESはマーケッテイングと技術担当重役に就任する。 甥のフランクも同社の重役として就任し、HARDY一族3代目を形成してゆく事となる。


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日本における最古のHARDYの代理店

1937年版のHARDY'S ANGLING GUIDEに見られる日本、中国および極東の代理店として下記の社名と住所が記載されている。

神戸市神戸海岸通り1 W.M.STRACHAN & CO(AGENCIES)LTD.
担当者:J.E.MOSS

HARDYでは1800年の終わり頃から、自社製造によるリーダーや、ティペット付きフライの製造を本格化しており、当初はガット素材としてスペインなどから購入していた。 しかし、事業の拡大からシルク素材を採用する事となり、日本から絹の大量購入計画が生まれ、日本との取引先として、同社が選ばれた。

1920年頃からシルクフライラインの製造、さらにシルクを素材としたスピニングラインなどの購入を同社を通じて行うとともに1940年の第2次世界大戦直前まで相当量を購入した。 しかし、日本の代理店を通じてHARDY製品の日本への納入はほとんどHARDY社の記録にはなく、同社はほぼ輸出の為の代理店として存在した様子である。

JIM HARDYの推測では、極東つまり中国、日本などは英国人として当時とらえていたのはすべてまとめての視野であったので、国名表示も適当に表記したのではないかとの事である。

また、戦前に日光中禅寺湖畔に作られた東京フィッシング&ハンティング倶楽部のハンター氏のHARDY製品の所蔵は、本人が直接英国から持ち込んだもので、代理店を経由しての所有ではないとされている。 ただ同氏も貿易商であり、神戸に事務所が存在した事を考慮すると、同代理店を経由して購入した製品も含まれていても不思議ではない。 ちなみに当時、中禅寺湖畔にあったフランス大使館別荘などで使用された釣り具のほとんどは、外交官が自分で赴任の際に持ち込んだもので、当時日本において彼らを満足させられる洋式釣り具は日本には存在しなかった。

東京において当時、これらの商品を英国などから輸入したとすれば2-3の貿易商社で白州次郎氏などが経営していた会社があげられる。 これは元モーガン銀行に勤務していた樺山氏などから得た情報であるが、すでに故人で事実関係が確認出来ない。

戦後の代理店は、栄通商株式会社(大阪)、DODWELL&CO.,(東京)、株式会社スバンを経由後1976-1994の間株式会社アングラーズリサーチ(干葉)である。


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HARDY BROTHERSの支店とカタログ、商標などの変遷

【カタログと商標】

創業当初からJ.J.HARDYは通信販売を重要視していたため創業時からカタログを重視、エジンバラーロンドン間の鉄道の整備、そして駅馬車の地方サービスなどを利用しての輸送を配慮し1937年には55版のカタログを刊行するに至った。 この年は2回目の英国皇太子のご用達であったが、その皇太子がジョージ5世として、王位についた記念の年で、ハーディーではこの祝賀として55版の一部は、祝意を表す表紙に変更した。

1942年ロンドンのPALL MALL店がドイツ軍の空襲により破壊、休業となりシティーのロイヤルエクスチェンジ店(旧市内)で細々と営業を継続する。 カタログの発行も戦前戦後の間毎年は発行出来ず、1956年に62版を刊行し戦後の毎年発行に戻った。 1951年PALL MALL店は営業に再開にこぎつけるがカタログまでは完璧に復旧出来なかった。 1968年に現在の商標である城枠のなかにフライをおいたものが採用され、旧商標のロッドを握るものは廃止された。 ただサブ商標として使われていた楕円形のなかに HARDY, ALNWICK とかかれたものは商品の一部に引き続き使用された。
1987年頃から、商標のマイナーチェンジが行われ、長方形のなかに城とフライのマークがおかれ、周囲をフライが囲むものに変更されたが、基本は同じ。 ただ色彩が加わり公式には ROYAL NAVY(紺色) をベースに商標などを GOLD MOTIF(金色) で表示する様に変更された。(単色の場合は白抜き)
カタログはその後、1966年-1971年は変形B5サイズで発行されたが、名称はANGLER'S GUIDEではなく ANGLERS CATALOGUE となった。 1971からは現在のA4版として定着したが昔の面影を残さないものとなった。 HARDYカタログは1980年末から経営者が変わった為に、定期的な発行が行われなくなった。 1992年を最後に過去2年余新カタログは発行されなかったが1995年3月最新版が刊行された。

【小売部一支店】

1930年頃までに英国国内に6店舗を持ち、直接顧客に製品の販売を展開するとともに、現在のプロショップ制度に似たハーディーの販売ネットを国内に整備し、英国内の主要都市でHARDY製品が販売出来る事になった。 また直営6店舗ではロッドのオーダーメイドの引き受けを行った。

61 PALL MALL 店

現在唯一残っているロンドンの小売部、セントジェームス宮殿の正面にある(注:2006年現在撤退した模様)。 本来この店は貴族、王室関係者のご用達として設置したが、外交官などの口伝えで外国の名士やマハラジャなどが顧客となった。 ヘミングウェー、ザーングレイなどの文士もこの店の常連であった。 現在でも公爵、子爵などが時折来店される。 終戦後、ビルの復興が行われ1951年4月4日に業務を再開した。

CASTING SCHOOL OF LONDON と呼ばれる釣りの個人教授は1928年 MR.F.TILTON がウインブルドン公園で行っていたものを、ハーディーが専属契約をし、始まった。 その後1930年代半ばから、担当者としてCAPTAIN EDWARDSを迎え、場所もHARDYの本社があるALNWICKの領主であるDUKE OF NORTHUMBERLAND(ノーザンバーランド公爵)のロンドンの館があるSYON PARKに場所を移した。 公爵は二代にわたり、HARDY BROTHERS社を評価し、地場産業の育成のため多くの助力を惜しまなかった、ゆえにこの関係が新しい商標にみられる通り城内のフライとなった。 ノーザンバーランド公爵の城内のフライはHARDYを意味するものである。
エドワードは多才の持ち主であり、航空機の操縦を始め、ダイムラーのテストドライバーとしても著名で、さらに多くの釣りトーナメントのチャンピオンの名声をほしいままにした人で、晩年まで多くの世界の人々にフライフィッシングを伝授した。
1960年代の半ばに3代目の教授として、エドワードの愛弟子であるJOHNNIE W. LOGANがその後を引き継いだ。 ジョニーエドワードの技能に傾倒しており、彼の技術を見事に継承したと言われている。 またジョニーは在職時代には多くのハーディー製品のフィールドテスターとしても活躍している。
受講者や一般には CASTING SCHOOL OF LONDON はHARDY社の運営と思っている人がほとんどであるが、エドワードローガンHARDYの社員でも嘱託でもない。 HARDYと彼らは専属契約をなしたいうなればテナントの様な関係でむすばれていたのである。
勿論、授業の為の釣り具などの提供はHARDYが行っていたが、自己用釣り具については個人購入をしていたのである。

戦前からの銃砲部門も1970年代までは、継続していた。 グループのなかにはチャーチル銃があり、またグラントなども関与していた。 戦前にはウインチェスターなども手広く扱ってきた関係でPALL MALL店は銃砲ファンも多くあった。 しかし銃砲の事業は次第に衰退し、グループの銃砲部門は、チャーチル、アトキン、グラント、ラングの4社を統合し再建を図ったが成功には至らず80年代全般でPALL MALLから撤退した。
1970/1980年代までは、勤続30年余の店員を有する店で、ALAN VARE, TIM STOOPなど経験豊かな支配人が店を管理してきたが、近年はほとんど古い店員もおらず、顧客を見分けるものがいなくなってしまっている事は残念である。

12 ROYAL EXCHANGE(戦後は 81 CANNON STREET に移転)

シティーと呼ばれる高級階級や、金融筋の人々を相手として、営業を行ってきたが、HARRIS&SHELDONグループにHARDYを売却事閉鎖された。 この店の特徴は早くから贈答品としての釣り具が多くハイソサエティーの人々が、クリスマスや退職記念品などに釣り具を利用しており、景気に左右される典型的な店舗であった。

37 GEORGE STREET, EDINGURGH

スコットランドのエジンバラ市の目抜き通りに面したこの店はサーモンフィッシングの拠点として、海外からの顧客も有する有名店でロンドンのPALL MALL店とほとんど同時期に開設された。 この店は1970年初頭、閉鎖されるまで、釣りのメッカとして多くの人々に愛された。 マネージャーのジョンソンは約40年にわたりこの店を運営してきた。 釣り場の予約、アシスタントの手配などスコットランドのサーモンフィッシングには欠かせない存在で、優先予約が可能な釣り場契約など、ジョンソンの残した功績は大きい。

12-14 MOULT STREET, MANCHESTER

この店は釣り具と銃砲を商うHARDY店として、人気があったが、1960年の後半からの景気の低迷で、HARDYの支店としては、1970年始め閉鎖された。営業的には銃砲の部門の方が充実していた。

117 WEST GEORGE STREET, GLASGOW

スコットランドのハイランド地方を代表する都市でのこの店は、サーモンフィッシングの前線基地として、戦前が多くの顧客でにぎわったが、距離的にもエジンバラと近く戦後は顧客を多く得られずエジンバラ店を残す事で1960年代の末、閉店した。

1967年7月、HARDY社はグラスロッド工場建設資金を得る為にHARRIS&SHELDONに売却、その後も経営を引き継いだが、HARDY一族の経営方針と180度の転換を迫られ、次第に商業ベースの近代化の波に見舞われる事になった。


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一流ブランド物語

HARDY
ハーディー

魚釣りの聖書、アイザック・ウォルトンの「釣魚大全」をひもとくまでもなく、フィッシングの正統、いや釣りのなかの正統派といっても決して過言ではないフライフィッシングは、莫国紳士の伝統ある釣り方である。 もちろん日本でもてんから釣りアユのドブ釣りといった日本独特の毛バリ釣りがあるが、それはさておき、世界のフライフィッシングといえば、英国紳士によって完成されたかなりテクニックを要するスポーツフィッシングである。 それはエサ釣りとちがって昆虫に似せた毛バリを生きているようにキャスティングして魚を誘う、釣り人にもハンディーを負わせた釣り方である。

英国北部の小さな町、アーンウィックに名の知られた鉄砲メーカーがあった。 1872年、その鉄砲づくりのかたわら釣具をつくりはじめる。 ハーディー・ブラザーズ社は以来100年以上にわたって世界の釣具のスペシャリストとして、フライフィッシングの歴史をつくってきた老舗として知られている。

ハーディーといえば、まず竹竿。 1881年、トンキンバンブーを使ったフライロッドがはじめて博覧会に出展、ゴールドメダルを受ける。 以来初代のウィリアムとジョン・ジェームス・ハーディー兄弟のつくり出すロッドは、毎回ゴールドメダリストとしてヨーロッパ中に知れわたってゆくのである。

さらに2代目ローレンス・ロバート・ハーディーは六角竿の加工に機械を導入し、製品の品質性能をより高度にしていった。 バンブーロッドに冠されている名称に「パラコナ」がある。 これはハーディー社の商標であるが、一時竹竿を称してパラコナロッドといわれたほどであった。

余談めくが、バンブーロッドに使われる竹は、中国海南省に群生するトンキンバンブーを使っている。 この地方は1年中強い風が吹いており、この風が、密な繊維と強靭な弾力性をもったねばり強い竹に成長させている。 ハーディー社は広州交易会を通じて、このトンキンバンブーを大量に買いつけ、さらにこれを厳選して製品化している。

ナチユラルケーンロッドと呼ばれるハーディーのパラコナロッドが生まれるまでには、約10年はかかる。 供給された素材を自然に乾燥させるのに8年~10年、その後、約40日を要してロッドに仕上げられる。 すべて手づくりで一本一本仕上げられてゆく。 三角型に割った竹を6枚貼りあわせて六角型をつくりだす。 接着後の乾燥はムロに入れられ、60ワットの電球ひとつの熱で時間をかけて行なわれる。 度かさなる検査、最後の仕上げまですべてゆっくりムード。 一本ごとに書かれるロッド銘も手書きである。 近年、グラスファイバーや、カーボン・グラファイトのロッドが全盛であるが、100年を越える伝統につちかわれたハーディーのバンブーロッドの魅力は不変である。

また、フライリールについても、世界一と自他ともに認めるもので、数多い種類、世界の他社ロッドにフィットするリールとして他のロッドメーカーが純正リールとして採用しているほどである。 このリールは英国デザインセンターに永久保存品として納められており、他社リールのプロトタイプになっている。

また、ハーディー社は、1899年以来ロンドンに小売部を開設、世界のフライマンのメッカとしてにぎわっている。 この店では、1908年からキャスティングスクールを開設しており、2代目教授である現任者のジョニー・ローガン氏はチャールズ皇太子に釣りを伝授した人でもある。

ハーディー社は1931年、プリンス・オブ・ウェールズより「メーカー・オブ・フィッシング・タックル」の称号を授けられており、ジョージ五世、キング・アルフォンソ、キング・オブ・イタリア、プリンス・アクセル(デンマーク)さらに、チャールズ皇太子の釣具のご用達をしている。

現在、城の中にフライを配したシンボルマークが使われているが、この城は本社のあるアーンウィックのノーザンバーランド公の古城である。


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